和製オドラデクの生活環

きみの物語は終わった/ところできみはきょう/おやつに何を食べましたか――富岡多恵子「静物」

ぼくのトラウマまんが遍歴

今回は趣向を変えて「ぼくのトラウマまんが遍歴」を一席。
小学校から大学までぼくの心に何らかの痕跡を残した漫画を鑑賞年代順に紹介するというそれだけである。
完全な思い付きであり、特にはっきりした動機があって書いたわけではない。したがってさして気の利いた前口上もできない。さっそく始めよう。
 
1.藤子F不二雄「ねこの手もかりたい」(『ドラえもんてんとう虫コミックス7巻)

f:id:odradeque:20150407030530j:plain

まさに怪作。
登場するひみつ道具は、人体のパーツを切り取って他の部位に自由に付け替えられる「つけかえ手袋」と、付け替え用の人造部品。
これを使った金儲けを思いついたのび太は、反対するドラえもんから目を奪い逃走。
しずかちゃんには「少女漫画的な目」、スネ夫にはすらりと長い脚といったように、各々がコンプレックスを抱く部位を交換するという悪魔的な商売を開始する。
と、この筋書きだけでも既にどこか狂気じみたものを感じさせるが、具体的に読者を驚かせ不安にさせる描写も随所に見られる。
例えば新商売の「コマーシャル」と称してのび太がおなじみの面々を驚かせるシークエンスのテンポは非常にホラー的である(「三つ目のび太」の一コマは絵的にもたいへんおそろしい)。
またラストで目を奪ったのび太への復讐を試みるドラえもん*1の無言も不穏。読後感は決して良くない。
全体にシュール、かつどこかうす暗いムードが漂う奇妙な一篇。
(なおコミックス第7巻は「帰ってきたドラえもん」「小人ロボット」などドラえもんの温かさが沁みる作品もあれば、本作や有名な「ネズミとばくだん」のような異色作も楽しめる、かなりハイレベルな巻である)。
 
2.藤子不二雄A『魔太郎がくる!!』(の背表紙)

f:id:odradeque:20150407030648g:plain

読んでません。
あるとき本屋で棚に並んでいるのを偶然見かけ、ただその背表紙タイトル上部に描かれた魔太郎の顔だけでしばらく寝つきを損ねてしまった。
魔太郎に限らず、そもそもA先生の絵には昔からアレルギーの気がある。
笑っているのか怯えているのかわからない半円形の目や、靴裏に何か噛ませたくなる傾いだ人物像など、A先生の世界観は存在論的なレベルで歪み、ぐらついている。
そしてそれが彼の「ブラックユーモア」の足場になっているのだ*2
(ところでこれはなにぶん小学生の頃だし、そろそろ大丈夫だろうと大学一年の頃に意を決してA先生の『ブラックユーモア短編集』を購入してみたのだが、ある作品のあるコマの登場人物の顔を見た瞬間刺されたような恐怖を覚えその後二度と開くことができなくなり、長らく袋に入れて封印していたがいつかとうとう売ってしまった)。
 
3.秋本 治『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の第1話
こんなの誰でもビビる。
 

f:id:odradeque:20150407034351j:plain

言わずと知れた名作。
父の書架にあったのを中学生の頃ひそかに盗み読んだのを覚えている。
いい感じの人情話もあるものの、回によっては主要な登場人物にさえ、あまりに生々しい心の闇を容赦なく付与してゆく。
まさに気迫のヒューマニズムである。
あれほどのものを見せられていると、セオリー通りの役割モデルをそつなくこなす大方の「キャラ」なる存在物は、二次元云々以前にそもそも人間として作られていないのだと思うようになってくる*3
何にせよ、あれは下校中などふと思い出しては人間について悶々とする日々が続く程度に、中学生の心的エネルギーを消費させる漫画経験であった。
 
5.つげ義春「必殺するめ固め」(筑摩書房版『つげ義春全集』第6巻)

f:id:odradeque:20150407035231j:plain

これはトラウマまんがの常連であると思う。
中学生の頃、晴れた日曜日に自転車で隣町の図書館まで行って本を漁るのにハマったことがあった。
こんな禍々しい表紙の『つげ義春全集』に手を出したのは、実家にあった本で「ねじ式」の眼医者の看板が宮崎駿千と千尋の神隠し」の元ネタのひとつとして紹介されていたからである。
第6巻は「ねじ式」「ゲンセンカン主人」といった代表作から「夢の散歩」のようなどうしようもない作品まで色々読めていい感じなのだが「必殺するめ固め」はとにかく衝撃であった。
簡単に言うと、ある男が元レスラーの暴漢に「必殺するめ固め」なる技をかけられ話すことも歩くこともできなくなったうえ目の前で妻を犯されるという、それだけの話である。
それだけであり、それだけでトラウマなのだが、ただその「それだけ」のうちには細かいトラウマのポイントが色々あって、どこに引っかかるかは各人の性別年齢性格性癖etc.に応じてかなりばらつきがあるだろう。
そしてそのひとつひとつが、おそらく丁寧に掘り下げてゆくに足る話題である。
しかし中学生の私にとってはそういう色々な刺激の種も見分けがたくごっちゃになっていて、それがとりあえず恐怖として知覚されたのだった。
要するに年不相応だったのだが、不相応だからこそ意味のある鑑賞体験もあるだろう。これはそういうタイプの漫画。
 
6.石ノ森章太郎「ジャム・ソーセージ」(角川ホラー文庫『歯車――石ノ森章太郎プレミアムコレクション』)

f:id:odradeque:20150407042125j:plain

細かいことは覚えていないがとりあえずひたすらシュールでダウナー、意味不明。
地元の本屋で立ち読みした直後にものすごい胃もたれに襲われたあの感じを今も鮮烈に覚えている。
これも中学時代。
 
7.さくらももこ「美人は得か」(集英社文庫版『ちびまる子ちゃん』8巻)

f:id:odradeque:20150506041343j:plain

これはたぶん高校時代。
ちびまる子ちゃん』の絵柄は 尼子惣兵衛の『落第忍者乱太郎』と同型の進化を辿る。
どうにも素人じみた画風は次第に洗練されてゆき、洗練されるにつれて登場人物の等身は小さくなりキャラクター的な安定感を獲得するのである。
文庫版8巻の絵柄はまさに「円熟」の域であるのだが、実のところ私はこの時期のさくらももこのストーリーセンスがあまり得意ではない。
はっきり言って気持ち悪い。どろどろしている。額のタテ線が担う重みが初期とは全く異なっていて、それはもはや単なる「引き気味」の表現ではなく、まさしく修羅場入りの合図なのだ。
おそらく初期の「作者の声」(アニメではキートン山田が担当するあれ)は「未来のまる子」というステータスを持っていて、だから人間的な視野の偏りもあったし、それゆえの温かみもあった。
しかし話を追うごとに次第に声は抽象化されてゆき、視線は神の中立性に近づいてゆく。登場人物すべてが平等に突き放されているような感覚。誰もが少しずつ狂っている、その風景が淡々と描写される。ただしあくまでギャグとして――そのことすらもどこか、気持ち悪い。何かが隠蔽されている。
ここに挙げた「美人は得か」は特にいたたまれない悪意に満ちた作品だと思う。
(ただしこのように書くと、初期のさくらももこは健全で、次第に病んでいったかのように思われてしまうかもしれない。もちろんそんなことはなくて、彼女は本質的に狂気の漫画家である。ただその狂気の質も『神のちから』と『永澤君』では決定的に違うのだ……と言えば、わかってもらえるだろうか)。
 
8.高野文子「奥村さんのお茄子」(マガジンハウス版『棒がいっぽん』)

f:id:odradeque:20150506045153j:plain

ここからは大学。
最初に読んだときに衝撃を受け、その衝撃を引きずる形で、今の今までただの一度も「理解した」と思うことなく繰り返し読み直し続けている。
これはなんなのだろうか。
因みにこの『棒がいっぽん』という作品集は墓穴まで持ってゆきたい人生最高の一冊。
 
9.榎本俊二「ジャッキグー」(双葉社版『反逆ののろし』)

f:id:odradeque:20150506050006j:plain

 榎本俊二でいちばん恐ろしいのはこの作品である。
 確かに『ゴールデンラッキー』も『えの素』も『ムーたち』もそれぞれの意味でショッキングではある。だが榎本がそこで何をしたいのかは、あくまで明確だ。
ところがこの「ジャッキグー」は、何がしたいのかまるでわからない。
昼間は寝てばかりのだらしない飼い犬が、野良犬の悪友たちと連れだって毎夜くりだす冒険をメルヘンタッチで描いている――と言うと「それらしい」が、このような体のいい説明ではとらえきれないいびつさがこの作品にはある。
 
これはなんなのだろうか。
 
これはなんなのだろうか――要するに「トラウマ」とは、私にとってそういうことなのだ。
24年も生きていると、物事を解釈する装置のストックもずいぶん豊かになってくる。大抵のものは頭の中でクラスわけできるし、なんだかわからないものに出会っても、それが厳密な意味で「トラウマ」という形を取ることはあまりない。つまり直接それが「傷跡」にならないように、なんだかわからないもののための隔離フォルダが作成されるわけだ。そうやって、来たるべき悟りに向けた計画的な反芻が可能になる。
だが本質は多分ずっと同じなのだろう。
ぼくのトラウマまんが遍歴は、なんだかわからないものとの邂逅の記録である。
 
 
 
 

*1:子供にドラえもん書いてごらんと言うと、最初に頭の輪郭を描き、次に顔の白い部分と青い部分を分ける境界線を描くことが多い。そしてかなりの確率で彼らは無計画にこの二つ目の半円を閉じてしまい目を描きこめなくなる(目をその内側に描きこむものもいる)。

*2:反対にF先生の「スコシフシギ(SF)」はぼくらが日常と呼ぶ端正な現実感覚を見事に写し取った絵柄の上に成り立っているわけだが、要するに私は圧倒的なF派なのである。

*3:全然関係ないけど『魔法少女まどかマギカ』にはたぶん、最後まで「人間」がひとりも出てこなかった。