読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

和製オドラデクの生活環

きみの物語は終わった/ところできみはきょう/おやつに何を食べましたか――富岡多恵子「静物」

あやふやな世界のホメオスタシス――panpanyaについて

 
f:id:odradeque:20150621125512j:plain
panpanyaとは何か。人名である。誰の名か。漫画家である。
 
私家版の作品集2冊を一般流通向けに再編集した『足摺り水族館』(1月と7月、2013年)が実質的なデビュー作*1。現在は同人活動と並行して白泉社の「恋愛系」コミック雑誌楽園 Le Paradis』に短編作品を掲載しており、既に同社から二冊の単行本『蟹に誘われて』(2014年)『枕魚』(2015年)を刊行している。
 
というわけで今回はこれら三冊の作品集をもとに、panpanyaという才能についてごく簡単にではあるが、論じてみたいと思う。
 
主人公はほぼ固定。冒頭に挙げた『枕魚』のカバー中程に描かれている年齢不詳*2ジェンダー属性も限りなく曖昧な(おそらく)女性である。
彼女の造形がきわめてラフな描線でなされているのとは対照的に、背景は概して黒々と、細部まで描き込まれる*3。とりわけ、どこかアナクロな風情を湛えた看板が歪んだパースで林立する「街」の姿をpanpanyaは好んでいるようだ。
 
物語は基本的に「異界探訪譚」のさまざまなバリエーションである。ふらふら歩いているうち知らない場所に迷い込んでしまう場合もあれば、あるいは自分の住んでいるはずの風景が、些細な発見を通じて突然に異化されることもある。
ここで次のように考えることは可能だろうか。つまり細密な背景とラフな人物像のギャップは、風景と主人公両者の属する次元の差異を際立たせ、異界に晒された実存の不安を表現しているのである、と。
ありえないことではないが、だとしてもそれは一瞬のことだ。panpanyaは決してそのような不安を作品の主題としているのではないし、むしろそこで描かれる世界は奇妙なほどに安定している。
 
panpanayaの作品には、しばしば主人公のパートナーや案内役として、直立歩行をし人語を介解する動物たち(犬やイルカや魚……ただし面白いことにどの動物も顔の造形にほとんど大差がない)が登場する。彼らはみな主人公と同様のラフなタッチで描かれており、彼女と世界とのスムーズな交感を橋渡しする役割を担っている。彼らの存在は、世界の「あちら側」と「こちら側」というような対立を静かに無効化してしまうだろう。
異界、と言っても既に述べたようにpanpanyaの描くそれはあくまでここと地続きの場所なのであって、ファンタジックにぶっ飛んだ世界へのワープのような契機はどこにもない。特にその夢幻性を念押しするための「再訪の失敗」が描かれないことは重要である。
 
例えば『蟹に誘われて』所収の「方彷の呆」。
電車の中で居眠りをしていた主人公は目覚めたはずみで間違った駅に降車してしまう。それは「駅前商店街駅」という時制攪乱的な名前をもつ駅で、見知らぬ街をさまよううちに主人公は自分が別の世界に足を踏み込んでしまっていたことに気づく。助け舟を出すのはここでも動物――何かよくわからないショップの店員レオナルド(犬)である。なんだかんだで原因が幽体離脱であると判明、身体の方も駅の遺失物センターに届いていたので事なきを得るという物語だ。
で、面白いのはラストだ。レオナルドと涙の別れをした後日、同じ線の電車に乗っていた主人公は「次は駅前商店街…」というアナウンスを聴き、「駅前商店街」と書かれたアーケードのゲートを窓越しに見る――そして「いや…降りないけどな…」と呟く。
それが「あの」駅前商店街なのか、駅前商店街駅は「こちら側の」空間であったのかそれとも身体を取り戻した後も主人公は「あちら側」に踏み込んだままなのか。いろいろな解釈はできるだろう。だが主人公はレオナルドからもらった「キッチンタイマー」をその後も持ち歩いているし、いずれにせよ訪れた異界との絆はかなり確かな形で主人公のもとに残されているのである。
 
あるいは『枕魚』に収められた「ゴミの呼び声」も同様の観点で読むことができる。主人公は町内清掃に没頭するうちにひとり時空を超えて過去を訪れてしまい、牛の引く「大八車」を借りて大量のゴミを集め始める。その状況に主人公が殆ど驚きや疑いや示していないのも興味深いが、集合場所に戻って参加賞のジュースをもらったあとのラストのコマはなかなか衝撃的である――大八車を返し忘れていたことに気づいた主人公は友達に「帰りちょっと寄り道していい? 悪いけど」と言い、「しょーがないなー」と呟く彼女とともに牛を引いて去ってゆくのだ。
 
このように、panpanyaの主人公は訪れた異界を喪失しない。というか、そこではあらゆる喪失が予め排除されていると言ってもいい。主人公が老いることはないし(註1参照)、濁流に流された相棒は魚になって戻ってくる。すべてがすべすべに規格化されてしまうニュータウンの外には古い街並みがその価値込みで残されているし、休暇満喫に賭けた不毛な情熱によって期せず日曜日を潰してしまっても、翌日は運よく祝日だ。世界は若干のずれを含んだまま、不気味なほど穏やかにホメオスタシスを保っている。
 
喪失の喪失、これはある種の放埓なのだろうか。確かに喪失や切断を描くことはある種の禁欲であると言える。特に児童文学などにおいて「あちら側」との別離は大人になるための、イニシエーション的な機能も果たしているだろう。
しかしこのような禁欲はその本質において、その手前に巨大な欲望のプールを護っておくための手段に過ぎないのではないだろうか。失われるものは、失われることによってこそ、ファンタズムとしてのステータスを無傷のまま保っておくことができるのかもしれない。
だとすれば喪失を喪失することで、panpanyaは「あちら側」という幻想そのものを放棄しているのだとも考えられる。あちら側など存在しない――全ては日常の、あるいは私たちの足が踏むこの道の続く先にあることがらである。しかしこの苦々しい確信は同時に、「こちら側」は私たちが思っている以上にあちら側に似ている、ということでもあるはずだ。
 
「あちら側などない」というのは「全てがこちら側にある」がゆえのことなのだろう。panpanyaが主人公を異界へと迷い込ませる発端には、日常の中の些細な逸脱に対するいわば「VOW」的な感性がある。この世を既にして半ば滅茶苦茶なワンダーランドとして楽しみ直すということ、それは幻想への幼児的な逃避というよりも、ある種の諦念をバックにした、なんというかとても「大人」な愉楽であるように思う。
 
だからpanpanya的な日常は、たとえ虚構的で疑似的なものであるとしても、決して「あちら側」に仮構されているのではない。それはむしろ複数世界への欲望を一切断ち全てが「こちら側」にあるのだと信じ切ったとき――つまりは人が夢を見る能力を捨てたとき、世界がいかに見えるかということの思考実験なのである。死後の世界とか、安息の地とか、あるいはこの世における我が人生の行く末を含め、今ここにあるのでないいかなる彼岸を追い求めることもなく現在の中で完全に自閉することができたなら……そのとき犬はきっと立ち上がり、まるで古くからの友人のようにお茶話を始めるのだ。
 

*1:『足摺り水族館』およびpanpanyaの最初期の歩みについては版元である1月と7月の公式サイトを参照→ http://1to7.tumblr.com/post/113483862528/panpanya-ashizuri。また「このマンガがすごい!web」に掲載されたインタビューも興味深い→http://konomanga.jp/interview/788-2

*2:年齢不詳というよりもむしろ不老不死に近いのかもしれない。例えば『蟹に誘われて』所収「計算機のこころ」では「8年後」というテロップの後にも時が経つ前と風貌も服装も一切変化のない主人公の姿が映される。

*3:時には人物を鉛筆で、背景をペンでというように画材が使い分けられることもある。