和製オドラデクの生活環

きみの物語は終わった/ところできみはきょう/おやつに何を食べましたか――富岡多恵子「静物」

餓死について

 断食芸人といえばカフカである。安部公房にも『飢餓同盟』なる作品がある。どうも「飢え」というテーマは「不条理」と呼ばれるジャンルと相性がいいらしく、日本の不条理演劇の第一人者である別役実にも同様の関心が見られる。たとえば戯曲「獏」にはそのものずばり断食芸人が登場したりもするのだが、このテーマに関して彼の考察がいっそう光っているのは「そよそよ族の叛乱」という作品である。
 ある女性が変死体で発見される。主人公の探偵は事件解決にあたって、まず人間の死を「他殺」「自殺」「事故死」「病死」「老衰」の5つに分類する。ところがそれで枚挙を尽くしたと考える彼に対し、もうひとりの主人公である女はそれらいずれとも異なる可能性を提示する、すなわち――
 
「餓死よ。餓死は、自殺でも他殺でも病死でも事故死でも老衰でもないわ。飢え死よ。飢えて死ぬのよ」
 
 命題にまとめてしまえば「餓死は飢え死にである」と、これは言うまでもなく同語反復である。とはいえ同語反復が本当に無意味であるのは、現実にはごく特殊なケースにすぎないのであって、この場合もきわめて強い、殆ど論理的な説得力を帯びている。餓死は、飢え死にである。飢えて死ぬことが餓死である。そんなことも私たちはこれまで知らなかったかのではないか? そんなふうにさえ思えてくる。
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 不勉強を恥じつつ、今さらながら「アラブの春」の基本を知ろうと、田原牧のルポルタージュ『ジャスミンの残り香』(集英社、2014)を読んでいるなかで、こんな一節があった。
 著者は今なおアラブ人に根強い「日本人は皆、お金持ち」という幻想を晴らすため、特派員時代のエジプト人助手イサームに、ビニールシートのテントが並ぶ新宿中央公園の光景を見せる。そして「冬には路上で凍死したり、飢え死にする人もいる」と説明するのだが、するとイサームは眉間にしわを寄せてこう答える。「エジプトは日本よりも貧しいけれど、餓死はない」。
 ない、というのが文字通りのゼロであるとはもちろん思わない。だが、なんにせよ経済的格差のある二つの国があるとき、豊かである国の方にだけ存在するといわれる死の形態があるということは、それだけで強く奇妙な感覚を生む。この感覚は、当の死が形而上学的な自殺などではない、見ようによっては最もフィジカルで生々しい死にようであるぶん、なおのこと強まらざるをえない。そしてこの奇妙さは――別役実が暴いていたように――そのような死が、一見完全に見える五つの枚挙をいともたやすく逃れてしまうということから受ける印象と、明らかに通じている。
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 餓死はおそらく私たちという生き物の今この時の身体に対して、一番ちかしく内在的な死の形態である。そうであるはずの死が、何か巨大で目に見えないプロセスによってあらかじめ不可視化され、最も遠ざけられている。精確な語法であるかはわからないけれど、私たちは餓死から、飢えて死ぬことから疎外されて生きている。餓死が示す「底」の部分から引きはがされ、多かれ少なかれ抽象的に生きたり死んだりさせられている。
 
 そこに不気味なものがある。