和製オドラデクの生活環

きみの物語は終わった/ところできみはきょう/おやつに何を食べましたか――富岡多恵子「静物」

レオ・ベルサーニ&アダム・フィリップス『親密性』檜垣立哉・宮澤由歌訳、洛北出版

 

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非常に魅力的な――あるいは誘惑的な――書物である。
というのはつまり、出会うタイミングによっては自分の実存を不当なまでに読み込んでしまいかねない、そういう類の一冊であるということだ。
要するに問題は自己と他者、そして愛に関わっているのだから。
 
例えば本書の第一章には初っ端から「精神分析は、セックスをしないと決めた二人が、たがいに何を話すことが可能なのかを問うものである」というかなり「グッとくる」定義が登場する。
しかも「精神分析は…」などと言いつつ実のところ、この言葉を基点として展開される議論は正式の分析状況よりもむしろ、そこから(意図的に、あるいは意図せずして)絶妙に逸脱した二者関係を主題としている。したがってこの定義は必然的に私たち自身のごく日常的な――セックス抜きの――二者関係全般に対する意識へと跳ね返り、そこに得も言われぬ緊張感をもたらすことになるだろう。
 
続く「恥を知れ」と題された第2章はさらにエキサイティング、というかあまりに刺激が強すぎるかもしれない。
主題はゲイ文化における「ベアバッキング」=「コンドームをつけないアナルセックス」、即ちHIVの感染リスクを承知のうえで行われる危険な性交渉である。
その議論は基本的にクィア理論家ティム・ディーンの研究を通じた間接的なものに留まり、ベルサーニ自身は具体的な行為そのものについて必ずしも明確な意志表明をしていない(微妙に否定的な態度を取っている)のだが、それでも可能な限りラディカルな結論を引き出そうとしていることは間違いない。
つまり感染させ(られ)ることを意図した危険な性交渉は、確かに自己と他者双方に対する破壊的な行為であるのだが、しかし同時にそれはウィルスの伝達(コミュニケーション)を通じたある種の共同体(コミュニティ)の形成でもある、というのである。
ベルサーニは同章末尾で次のように述べている――「おそらく、自己剥奪そのものは、自我の抹消というよりは自我の散種といった、自我膨張の一種としてとらえなおされなければならないのではないか」(100頁)。
 
自己破壊と自己愛の表裏一体を述べたこの一節に限って言えば(そこに至るまでの経緯はどうあれ)それはごく卑近な共感を広く読者に引き起こしうる、とは言えるかもしれない。
ところが第3章「悪の力と愛の力」にきて話はさらに怪しげな方向に向かう。
 
そこにおいて前章のテーゼは、半ば居直りのような仕方で反転される。
自己剥奪さえも一種の自己膨張であるとすれば、いわゆる「隣人愛」に見られる普遍的規範、即ち他者のために他者と関わるということは端的に不可能である。
精神分析は「わたしたちは自分だけを愛している」(128頁)のだということ、「〔自己以外の〕対象を愛すること〔…〕はどこか奇跡的な事態」(126頁)なのだということを暴露してしまった。ベルサーニが試みるのは、このことを「愛の脱神秘化」(それはつまるところシニシズムに他ならない)とは別の方向に導くこと、つまり他者への関係がナルシシスティックなものでしかないことを受け入れたうえで非暴力的な他者への関係の可能性を探ることである。
 
「誇大化した自我の刺激〔=ナルシシスティックな快楽に繋がる攻撃性〕が、理性的な意志〔自我の膨張をコントロールし他者の尊厳を訴える道徳的規範の設定〕によってではなく、自我の破壊的ではない性愛化によって未然にくいとめられることはないのだろうか」(122頁)。
 
この問いに対して同書が提示する答えが「非人称的ナルシシズム」なるものであり、ベルサーニはそれを『パイドロス』に見られるプラトン主義的な愛(濁さずに言うならばそれは要するに「少年愛」なのであるが)の理論から引き出している。
 
ソクラテスが愛(エロース)と呼ぶのは、地上において、かつて不死なる魂として天界を彷徨っていた頃に間近で見たはずのものを彷彿とさせる美(少年)と出会った際にわれわれを捉える狂気じみた感情である。
しかしここのとき愛されている者は単に美を想起させるだけではない。天界において魂は各々に特定の神に導かれていたのであるが、彼が地上において愛するのはそのような神の本性を備えた少年である――つまり、かつて自分と同じ神のもとに仕えていたであろう者を、彼は愛するのだ。
それゆえ彼が愛するのは結局のところ自分に似た者であることになる。そして愛される者(少年)の側がその愛に応えるときにも、彼が愛しているのは実のところ、愛する者が抱く少年自身のイメージに他ならない。
その意味でこの愛はナルシスティックなものである。しかしその限りにおいて、それは「純粋な対象愛」でもある。愛する者の愛する自己は愛される者の自己でもあり、愛される者は愛する者の自己として愛される自己を愛する――「愛する者と愛される者(この二者をまだ区別する必要があるだろうか)の双方におけるナルシスティックな愛は、他性を知ることとまったく一致する」(141-142頁)。
 
これが「非人称的なナルシシズム」である。非人称的といわれるのはそこで愛されるのが人格的な自我=私(moi)ではなく、あくまでも未規定の再帰性を表す自己(soi)であるからだろう(ベルサーニは「自己」と「自我」をはっきり区別して用いている)。「寛容なナルシシズム」(143頁)とも呼ばれるこの愛は「能動的に愛する者と受動的に愛される者との対立を、ある種の相互的な自己理解を設定することによって解体する〔…〕同一性と差異性とのあいだの対立そのものが、存在を構成するカテゴリーとして無意味なものになるのだ」(同頁)。
 
ベルサーニはこの理論を「愛の力によって悪の力を滅ぼす〔…〕あるいは少なくとも回避させる」可能性として提示している(128頁)。この「回避させる」という慎重な言い回しには注意が必要だろう――というのも彼はナルシシズムが孕む「悪の力」を認めはするが結局のところ引き受けることをせず、それを文字通り「回避」し、悪を免れたナルシシズムの在り方をある種の「神話」のなかに、こう言ってよければ想像的な仕方で見出そうとしているにすぎないように思われるからだ
 
議論の詳細は忘れたが、かつてベルナール・スティグレールの『愛するということ――「自分」を、そして「われわれ」を』を読んだ際にも同じような失望を感じたことがあった。そこではナルシシズムという現象があまりにナイーブに肯定されているように思ったのだ。
確かにベルサーニの『親密性』はナルシシスティックな悪のどぎつさに対して、スティグレールよりも遥かに自覚的である。しかし、第2章において自己剥奪=自己膨張の究極的なモードをかくも衝撃的な仕方で提示していたことを考えれば、第3章は議論をいと美しき物語へと昇華するのがあまりに急速すぎるのではないか。愛の力を云々することの危険性について譲歩しつつなされる次のような正当化は、どこか過剰に楽観的な響きを持ってはいないだろうか――「わたしたちが愛を真面目に考えようとすれば、つまり愛をナルシスティックな浪費として真摯にとらえようとするならば、そのときわたしたちは、まずは、他者の意志との差異を大事にしようと望むだけで、ほとんどの場合、際に対する殺人的な敵対心とは関わらずにいられる〔…〕」(129頁)。
 
ここでは「真面目」さというきわめて怪しげな規範を以て、悪がナルシシズムの本質から排除されている。本当にそうだろうか。仮にそうなのだとしても、私たちの実態とは明らかにかけ離れたナルシシズムの理想を提示することに、果たしてどれほどの批判的な力が備わっているのだろうか――おそらく、すべては疑わしい。