和製オドラデクの生活環

きみの物語は終わった/ところできみはきょう/おやつに何を食べましたか――富岡多恵子「静物」

書くことと読むことのぎりぎりの倫理――千葉雅也『動きすぎてはいけない』について

以下は千葉雅也『動きすぎてはいけない』(河出書房新社、2013年)に関する書評めいた文章です。もう一年以上前に、公にするあてもなく書いた文章ですが、割と気に入っていたので加筆修正のうえ、ここに再録しようと思います。
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千葉雅也『動きすぎてはいけない』におけるドゥルーズ読解の要は、等位接続詞 "et "(英語の"and"即ち「と」)への着目にある。
 
千葉によれば「ドゥルーズの「と」においては、相反する接続と切断が、矛盾の乗り越えをすることなく、併せて考えられている」という。*1
接続と切断――これは「リゾーム」の二大原理とされるものであるが、ここから千葉はさらに後者を2つに区別する。即ち、第一にツリーからの切断があり、それによってリゾーム状の接続が可能になる。しかし彼はむしろ第二の切断、リゾームそのものの切断をこそ、強調している。*2
言い換えれば、他の事物「と」リゾームをなすこととは、決して無際限の接続によって「万物斉同」の混沌に流れ込むことではない、ということだ。
 
ただしこのときリゾームを有限化する切断は、音のつながりを語の連鎖として捉える際に生じるような(つまり有意味なユニットを産出する)分節化であってはならない。
必要なのはある種の「いい加/減さ」、適度な「無関心」による「非意味的切断」である。このような仕方でリゾーム状の関係性をなすこと、これこそ千葉の解釈する「生成変化〔devenir〕」に他ならない。

ところで同書の副題は「ジル・ドゥルーズ生成変化の哲学」となっている――だとすればこの書物において千葉は、ジル・ドゥルーズ「と」生成変化の哲学との関係性それ自体の「リゾーム」化、それらの「生成変化」を生じさせているのだと考えられる。
「と」に結ばれる二項はヒエラルキーをなさず、ここでドゥルーズは「生成変化の哲学」の絶対的な所有者ではありえない。
千葉は「ドゥルーズ哲学」に見出される「非意味的切断の原理」に従って、当の「ドゥルーズ」とその「哲学」との間の関係性そのものを弛める。それによって千葉自身による「アドホックな」介入、(浅田彰による帯文の表現を借りれば)ドゥルーズ哲学の「変奏」が可能になっているのである。
このような循環の内で展開される千葉雅也の「変奏」はしかし、言うまでもなく独占的な我有化ではない。ここで浅田の帯文を読んでみよう。
 
ドゥルーズ哲学の正しい解説? そんなことは退屈な優等生どもに任せておけ。ドゥルーズ哲学を変奏し、自らもそれに従って変身しつつ、「その場にいるままでも速くある」ための、これは素敵にワイルドな導きの書だ」
 
奇妙に捩れた文章である。この本は優等生による正しい解説書ではない、と宣言する第一文を受けるなら「変奏」の主体は当然、著者・千葉雅也と理解される。ところが「〔…〕ための」以下を読むと、「変奏」および「変身」を行うのはむしろこの書に導かれる我々一人ひとりの側であるかのようにも、思われてくる。

確かに、「と」の論理によって変奏可能性を開くことは、千葉自身に留まらず無限に多様な変奏可能性にパスを与えることにもなりうる。しかしだからといって、千葉の変奏に各々の読者がジャム・セッション的に加わることで誰のものでもあり誰のものでもない「生成変化の哲学」の実践がリゾーム状に広がってゆく……といった夢想を喚起することはできない。
それでは千葉による「非意味的切断」の強調、リゾームのいい加減さと有限性という観点をないがしろにしかねないからだ。
変奏が我有化でありえないとしても、それはむしろ「ジル・ドゥルーズ」の署名が依然として一定程度しがらみつづけるがゆえのことなのではないか。
ドゥルーズは(千葉雅也を含めた)我々に対し「生成変化の哲学」を完全に開け渡すことはないだろう。そして同様に、千葉は彼の「ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学」を我々の更なる変奏へと完全に委ねてしまうことはない。
所在なさげに、かつ執拗に、千葉は自らの署名にしがらみつつ、我々読者との接続をところどころで「無関心」に切断せずにはいられないのである。
 
要するにこの副題が明らかにしているのは、いわば頓呼法的なそのメイン・タイトルと裏腹に、同書が(単なる「導きの書」というよりも)すぐれて一人称的な書物であるということだ。
千葉が「ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学」について論じるということは、それら「と」千葉自身の関係性を問うことでもあるはずだ。おそらく同書の核心には、彼がそれについて書くという営みに関する自己言及性が拭いがたく存在している。
 
たとえばエピローグの直前、第9章の末尾において千葉はいささか唐突な印象も残しつつ「書くこと」という問題に言及する。そこで提示されるのは「書くことは、死に瀕した動物への生成変化である 」*3といういささか謎めいたテーゼである。
死に瀕した動物――千葉は「動物こそが死を知っている」というドゥルーズのコメントを解釈して、「動物こそが知る「死」、それは、自分の環世界にとって無関心な外部から来る他者によって不意打ちされ、わけも分からずに〔…〕殺されうるということである」と述べる。*4
また、ドゥルーズにとって動物とは「根本的に待ち伏せる存在」でもある。ここでも千葉の解釈に従うなら、それは「自他の環世界の境界において互いの貧しさゆえにシャープに分離された他者性へと、シャープに――無関心のまま敏感に――応じる存在」であることを、意味している。*5
つまり千葉にとって書くという行為は、決して豊穣ではない個人的な生活圏の内に幾分か自閉しつつ、しかしまたそれゆえにこそ他者の「不意打ち」に身を開く存在になるという意味において「動物になる」ことなのだ。
 
書物を通じたコミュニケーションの逆説は、権利上無限の伝達可能性に至るために一定程度の孤独を引き受けねばならないという点にあるのだろう。読者は作者にとって無関係な他者であり、また相互に無関係な他者たち、同じく「死に瀕した動物たち」の群れである。
この無関係性は「有限性」とも言い換えられる。書物を介したコミュニケーションが解消しえない無関心を孕むのは、それが決して無数の受け手たちひとりひとりへの十全な応答、無限に満ち足りた対話ではありえないからである。「序――切断論」において千葉は既に「一つの書物に脱稿の決定をすることは、様々なバランスを考慮した上であるとしても、非意味的切断である 」と述べていた。*6
 
一切の他者への全き応答が可能であるような書物はありえない。字数や紙幅の制限に鑑みて我々は必ずやどこかで区切りをつけねばならない。書くことの中断は同時に他者への関係の切断であり、したがってある種の「暴力」である。
しかしそれは決して端的な悪ではなく、ぎりぎりの倫理に留まりつづけるために必要な区切りでもある。そもそも同書のライトモチーフである「…すぎない」こととは、実のところきわめてクラシックなモラル(即ち「中庸」)の変奏だったのではないか。千葉は何よりまず自らの「書く」行為そのものにおいて、彼自身が応答せねばならない他者――ドゥルーズや我々――に対する必然的に有限な関係性のモラルを実践的に示しているのだ。
 
ドゥルーズその読み手である千葉、ドゥルーズについて書く千葉それを読む我々――この書物において「生成変化の哲学」は何よりまずそうしたメタ的でプラクティカルな関係性のレベルに生じている。
多分に一人称的で自己言及的な側面をもつ千葉の書物がそれでもなお「導きの書」としての意義を持ちうるとすれば、それはおそらくこうした点においてなのである。
 

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*1:千葉雅也『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』、河出書房新社、2013年、24頁。

*2:同書、22-23頁

*3:同書、358頁

*4:同書、同頁

*5:同書、同頁

*6:同書37頁