和製オドラデクの生活環

きみの物語は終わった/ところできみはきょう/おやつに何を食べましたか――富岡多恵子「静物」

メンヘラ・こじらせ・屈折

 人間椅子・和嶋慎治の自伝『屈折くん』(シンコーミュージック、2017年)の帯文に次のような記述があった。
「メンヘラ」でも「こじらせ」でもない、僕を作ったのは“屈折"だった――
メンヘラ・こじらせ・屈折の三幅対。これを目にしたとき、わたしは文字通り目から鱗が落ちる思いがした。かねてより個人的に考えたいと思っていたことにかんして有効な整理を与えてくれるような気がしたのである。
 以下、この三つの概念について互いに対照させるかたちでその特徴を描きだしてみたい。むろんとりたてて明確な根拠もない思いつきなので、あまり鵜呑みにはしないでほしいと思う。
 
1.メンヘラ
 三幅対において、まずメンヘラは「表層性」と「非歴史性」の二点によって特徴づけられる。一つ目の「表層性」についてまずは誤解のないよう明言しておくと、これは決して「ポーズだけだ」とか「演技にすぎない」とかいった低俗な中傷を意図したものではない。むしろそういった中傷が前提している純粋な「素」のようなものがごく自然に信じられなくなった果ての状況を示しているのであって、メンヘラという事象は見かけに反していわゆる「内面世界」とかそういうものとは全くかかわりがないのだ。たしかに精神の問題ではあるが、その精神は初めから明るみのなかに曝されている。湿気がないといってもいい。メンヘラ概念にかんしては個を殺すその雑な暴力性を徹底して嫌悪するか(cf. 大森靖子)、あるいは一種のカルチャーとして戦略的に肯定するか(cf. 松永天馬)、傾聴に値する言説はその二種に大別されるが、いずれもそれが表層的であるがゆえに記号的であるという同じ一点に根拠を持っているようだ。つまりこの語がきわめて安易な蔑称として流布するのも、あえてそれを自称として引き受けながらカルチャーを形成する余地を残すのも、それがパフォーマンスの次元における一定の型の選択に本質的に依拠しているからにほかならないのである。
 二つ目の「非歴史性」は、要するにメンヘラとは常に「現在」にかかわる概念であるということを意味する。たしかに第三者が過去のいくつかの行動を根拠にひとを「お前はメンヘラである」と名指すことはありうるが、主観的にはメンヘラであることは来歴に依存しない。むしろ後先もなくただ今ここに存在しているという事態にどうしようもなく囚われたときにこそ、ひとはメンヘラとなるのだというべきだろう。
 
2.こじらせ
 自らの過去を歴史化・物語化しうるに至ったとき、彼/彼女もはやメンヘラではなく「こじらせ」に近づいている。メンヘラのメンヘラ性をもっとも純粋に表現するメディアは機動性の高い「ブログ」だが、こじらせの場合は「自伝」がそれにあたる。基本的に「こじらせる」というのは、ほどほどにやり過ごすべきとされるものとの折り合いがうまくつけられないままそれが実存の中心に居座ってしまった状態をさす。だからそこには過去の葛藤や格闘があらかじめ含意されているし、一定の歴史性を帯びている。メンヘラとこじらせはこの点をもって対照される。
 ではその「やり過ごすべき」ものとは何かというと「女であること」とか「童貞であること」とか、あるていど普遍的な問題であり、ゆえに「折り合いをつけた世間」と「つけられなかった自分」との乖離がいやおうなく理解されることとなる。この普遍性が次に見る「屈折」との相違をなしている。
 
3.屈折
 屈折はメンヘラの表層性に対しどこまでも内面的であり、こじらせの普遍性に対してどこまでも個人的である。ガラスや水を通過した光が折れ曲るように外界からの刺激は内面にあってあらぬ方向へ反れてゆき、しかもその角度は個々に特異的なものだ。刺激は内面に鬱積して屈折を深めてゆくから、メンヘラとは異なりある程度の時間幅は含意されているといえるが、祭りの後の哀愁をおびる「こじらせ」とも異なり、屈折はあくまでも今まさに歴史化されつつある過程を指している。だから屈折はつねに現在形で「屈折している」といわれねばならない。
 
 ここまで「表層的」「内面的」「歴史的」「非歴史的」「普遍的」「個人的」といったポイントに着目してメンヘラ、こじらせ、屈折の三幅対を比較検討してきた。いうまでもなくメンヘラがいちばん(いわゆる)ポストモダン的で、屈折の概念は非常にモダン的あるいは保守的でさえある。だが「メンヘラ」の表層性がつねに第三者からの暴力的なスティグマタイズを誘い、主体的な引き受けの戦略もシニシズムとギリギリの闘いであらざるをえない危うさを帯びているのに対して、また「こじらせ」が否定的なかたちであれマジョリティの規範(何かと折り合いをつけることへの)を前提せざるをえなかったことに対して、個と内面をとりあえず信じるところから出発する「屈折」の姿勢が一つ袋小路を切り開くポテンシャルを秘めているのではないかと考えてみる余地はあるように思われる。ここではまだごく簡易な準備作業として整理をおこなってみたにすぎないが、 今後も「屈折」の可能性についてはさらに思考してゆきたい。

餓死について

 断食芸人といえばカフカである。安部公房にも『飢餓同盟』なる作品がある。どうも「飢え」というテーマは「不条理」と呼ばれるジャンルと相性がいいらしく、日本の不条理演劇の第一人者である別役実にも同様の関心が見られる。たとえば戯曲「獏」にはそのものずばり断食芸人が登場したりもするのだが、このテーマに関して彼の考察がいっそう光っているのは「そよそよ族の叛乱」という作品である。
 ある女性が変死体で発見される。主人公の探偵は事件解決にあたって、まず人間の死を「他殺」「自殺」「事故死」「病死」「老衰」の5つに分類する。ところがそれで枚挙を尽くしたと考える彼に対し、もうひとりの主人公である女はそれらいずれとも異なる可能性を提示する、すなわち――
 
「餓死よ。餓死は、自殺でも他殺でも病死でも事故死でも老衰でもないわ。飢え死よ。飢えて死ぬのよ」
 
 命題にまとめてしまえば「餓死は飢え死にである」と、これは言うまでもなく同語反復である。とはいえ同語反復が本当に無意味であるのは、現実にはごく特殊なケースにすぎないのであって、この場合もきわめて強い、殆ど論理的な説得力を帯びている。餓死は、飢え死にである。飢えて死ぬことが餓死である。そんなことも私たちはこれまで知らなかったかのではないか? そんなふうにさえ思えてくる。
……………………
 不勉強を恥じつつ、今さらながら「アラブの春」の基本を知ろうと、田原牧のルポルタージュ『ジャスミンの残り香』(集英社、2014)を読んでいるなかで、こんな一節があった。
 著者は今なおアラブ人に根強い「日本人は皆、お金持ち」という幻想を晴らすため、特派員時代のエジプト人助手イサームに、ビニールシートのテントが並ぶ新宿中央公園の光景を見せる。そして「冬には路上で凍死したり、飢え死にする人もいる」と説明するのだが、するとイサームは眉間にしわを寄せてこう答える。「エジプトは日本よりも貧しいけれど、餓死はない」。
 ない、というのが文字通りのゼロであるとはもちろん思わない。だが、なんにせよ経済的格差のある二つの国があるとき、豊かである国の方にだけ存在するといわれる死の形態があるということは、それだけで強く奇妙な感覚を生む。この感覚は、当の死が形而上学的な自殺などではない、見ようによっては最もフィジカルで生々しい死にようであるぶん、なおのこと強まらざるをえない。そしてこの奇妙さは――別役実が暴いていたように――そのような死が、一見完全に見える五つの枚挙をいともたやすく逃れてしまうということから受ける印象と、明らかに通じている。
……………………
 餓死はおそらく私たちという生き物の今この時の身体に対して、一番ちかしく内在的な死の形態である。そうであるはずの死が、何か巨大で目に見えないプロセスによってあらかじめ不可視化され、最も遠ざけられている。精確な語法であるかはわからないけれど、私たちは餓死から、飢えて死ぬことから疎外されて生きている。餓死が示す「底」の部分から引きはがされ、多かれ少なかれ抽象的に生きたり死んだりさせられている。
 
 そこに不気味なものがある。
 
 

「優等生」批判についての覚え書

 
私と同年代(昭和末期から平成一桁生まれのひと)の方であれば「0点チャンピオン」という歌をご存知かと思う。NHK教育のアニメ版「忍たま乱太郎」のエンディングテーマのひとつだが、Aメロ部分の歌いだしは次のようなものである。
 
 お勉強ばかり がんばっても
 ダメなのさ
 逆上がりができなくちゃ
 けっこう カッコ悪い
 
私は幼少の頃からこの歌詞が嫌いだった*1。言うまでもなく、自分がまさしくこの歌の標的にされている気がしたからだ(逆上がりはできたけれど)。
要するに学校の「お勉強」はできるけれど「逆上がり」的なものができないひとたち。
彼ら(あるいは私たち)をここではさしあたり「ガリ勉」と呼んでみる。
続くBメロは歌う。
 
 さあ友よ 立ち上がれ
 競争はやめて 思いきり
 さあ外へ 元気よく 飛び出そう
 
だが、元気よく飛び出すことで始まるのは別の競争(かけっこ)であるだろう。ここに歌われているのは競争の否定ではなく別種の競争、「0点」の君が「チャンピオン」になれる競争の肯定である。そしてさらに重要なのは、かけっこで勝つ方が「お勉強」よりもずっと「大事」なのだということ。つまり0点チャンピオンは100点チャンピオンの等価なオルタナティブではなくて、この歌によれば0点チャンピオンの方がずっと、偉いのである。
こういう価値の逆転が単純だとさかしらな嘲笑をする気はない。ただ問題は、果たしてそれが見かけ通りの「価値の逆転」なのかということである。言ってしまえば、テストのチャンピオンであることよりも0点チャンピオンであることの方が「大事」だというのは、アウトローの皮を被った体制的思考の追認に過ぎないのではないか。よく考えれば明らかなように、少なくとも学校という社会において「ガリ勉」は全くもって強者ではない。サビの「大事なのは女の子にもてることだよ」という一節など、ひとかけらの容赦もなく世の非情を突きつけている。
だからここでいう「逆上がり」的なものというのは「体育」という単にニュートラルな教科を指すのではなくて、予め「もっと大切なもの」という社会的な規範化がなされた何かだ。例えば山田詠美の『ぼくは勉強ができない』新潮文庫版の宣伝文が、この価値観をひとことで要約している。
 
 ぼくは確かに成績が悪いよ。でも、勉強よりも素敵で大切なことが
 いっぱいあると思うんだ――。
 
したがって世に言う「ガリ勉」とは、勉強ができるというだけで、人間としてもっと「素敵で大切なこと」を失っているひと、のことだと定義できる。こういう表象は巷に溢れかえっている。最近では2年ほど前に見た映画版の「悪の教典」に成績はいいが冷淡で自己中心的という感心するほど典型的なガリ勉キャラが登場していたし「ちびまる子ちゃん」の丸尾クンなんて明らかに人間として大事な何かを欠いている*2
 
さて、ここまではとりあえず私怨である。だがいま冷静に考えてみても「0点チャンピオン」のイデオロギーは批判に値すると思う――2つの点で。
1.お勉強ばかり頑張っても、という物言いは全くもって学歴社会への批判にならないどころか、むしろそれを下支えしているという点。実質的に無力な「倫理上の」貶めを盛り立てることによってエリートのシステムは逆説的に安泰を保てるだろう*3
そして、次こそが私たちの論点なのだが、
2.この歌は結局「勉強もスポーツも誰にも負けない子」については見てみぬふりをしているということ。というのも「0点」に居直る君は、100点チャンピオンにかけっこであっさり負けうるのだ。
この圧倒的な権威をさしあたり「優等生」と呼んでおこう。
 
「ガリ勉」は実質的には弱者であるにもかかわらず「エリートの戯画」に堕すことで、いわばエリート主義や学歴社会をよりよく回すための体のいい生贄となっているのだった。「ガリ勉」への批判は見せかけだけのパンクであって、結局は現状の温存にしかならない。
それゆえ多少とも何かを揺さぶりたいのならば「優等生」こそ批判しなければならないのだが、「ガリ勉」蔑視と違って倫理的な後ろ盾を欠いているのでこれはなかなか難しい。出木杉君はあくまでも「いいひと」なのである。
出木杉君は殆ど完璧である。だがそんな彼にも唯一できない芸当があり、それは物語の主役を張るということだ。この一点において、出木杉君はのび太君に負けてしまう。これをもう少し一般化してみると、要するに出木杉君は「ちょっとつまんない」。
これは致命的な欠点である。そこで出木杉君的なものの権威は、ただの優等生とは「一味違う」別種の強者によって相対化される。
それが「頭のいい不良」である。
この「頭のいい不良」は優等生やガリ勉と並ぶ一大ステロタイプだというのは説明するまでもないだろう。そして彼らの強みは、それだけで主役を張る素質十分という点にある(ぱっと思いつくものだと吉田秋生BANANA FISH」のアッシュ・リンクスとか)。だが、別に私はここでフィクションにおけるキャラクター類型について論じたいわけではない。
 
私にとって興味深いのは、この三つのタイプは学者とか知識人あるいは批評家と呼ばれるひとびと(面倒なので今後は「インテリ」と総称します)に典型的なキャラクターでもあるということだ。
取り敢えず「ガリ勉」タイプについては措いておこう(「ガリ勉」タイプのインテリというのはこうして「取り敢えず措いておく」ことができるタイプの知識人だ)。面倒くさい――措いておけない――のは「不良」と「優等生」である。そして両者の関係は殆どの場合、「不良」タイプのインテリによる「優等生」批判として現れる。わかりやすい例としては浅田彰鶴見俊輔を思い浮かべてもらえばいい(もちろん両者は両者で全く異なるのだが)。インテリというのは原則的には(つまり無反省の状態では)「ガリ勉」あるいは「優等生」であり、ゆえに彼らは相応の自己意識で以て、そこからの差異化を図ることで初めて「不良」でありえたのだからこれは当然だろう。
私はこの種の「優等生」批判に対して非常にアンビバレンツな感情をもっている。
私自身はいわゆる「不良」ではなかったけれど「ガリ勉」と同様に「優等生」というレッテルもかなり忌避していたし、そういうステロタイプに押し込められないような工夫も人生の折々でしてきた。もちろんそれはそれで自分にとっては生きるうえでの知恵だった。しかし仮にインテリの「優等生」批判がそういう自意識の抵抗の延長でしかなかったり、そうでなくともせいぜい「あいつらつまんねえ」という美的な判断以上の射程を持たなかったりするならば、やはり充分ではない。実際そういう例は腐るほど存在しているだろう。だが(知識不足なので個別の検討は控えるけれど)先述した鶴見の不良意識などは、おそらくもっと重要なものに狙いを定めていたのではないか。充分な思慮のもとでなされる限り、「優等生」批判は私的な自己呈示の問題を超えた、公共的で批評的な意義を持ちうるとも思われるのだ。
 
昨年以降、社会運動の文脈で圧倒的なプレゼンスを示している「若者」たちに対する原則的な左派からの批判は、私の観測範囲では――一般的なイメージとは裏腹に――彼らの核にある「優等生的なもの」に向けられているように見える。そして私自身、その感覚を共有するところが大きい。もしかしたら本当はもっと別の名称が適切なのかもしれないが、今のところ「優等生」(あるいは「学級委員」「生徒会」)というベタなモチーフを援用するしかない何かがある。そしてその「何か」それ自体が批判すべきものであることはおそらく、確かである。
 
最近の就活現場を批判的に分析する記事で、昔ながらの「優等生」を忌避してもっと柔軟で「面白い」ひとを捕まえる方向に試験内容がシフトしても、結局は新種の優等生が捕まるにすぎない、という意見を見たことがあるが、これはもっともである。「優等生」とは必ずしも潔癖で品行方正とは限らない。その時代その時代でオトナや社会が何を求めているのかを明確にキャッチできるのが「優等生」であるとすれば、クラブカルチャーに親しむ等身大の若者像を活発な政治的アクションと組み合わせて提示することもまた、我らの時代の「優等生」の必須条件であるに過ぎない。
出木杉死すとも優等生は死なず、である。
だが、誤解のないように言っておくと、私はそれすらも、そのものとしては決して悪くないのではないかと思っている。生きにくさを抱えていないように見えるひとが、その生きやすさを天賦のものとして享受していると思いこむのは浅はかである。社会の価値観に乗っかることが必死のサバイブであるとき、それを批判する権利は誰にもない。
 
主役を張れる優等生が現れた今(あくまでインテリの言説空間内における)優等生vs不良の対決は「どっちが真に面白いか」という単に美的な意地の張り合いに堕してしまう危険がこれまでになく高まっている。そして対決の基準が美的なものだからと言ってそこに唯一客観的な決着がないとも言いきれないわけで、そのように考えてみると――すでに読めてきたと思うが――優等生批判の問題とはまさに罠だらけの迷宮としか言いえないものなのだ。そして私自身、はっきりとした脱出法を提示するなど到底できそうもないのである。
ゆえに、この文章には結論がない。結論のないまま、ただひとつのイメージだけがぼんやりと浮かんでいる――村上春樹ダンス・ダンス・ダンス』における五反田君のこと。五反田君は愛すべき「優等生」である。しかし彼は同時に、ワタヤノボル的な悪の系譜にも属している。この矛盾が五反田君に特別なきらめきを与える。
五反田君の体現する善と悪は、表と裏や外皮と核のような単純な関係にあるのではなかった。優れていること、強者であることがしばしば悪であるとすれば、それはそこに往々にして鈍感さが伴うからである。五反田君的な悪の複雑さは、そのような鈍感さが真っ先に抑圧するもののひとつである。鈍感な優等生たち、あるいは鈍感である限りにおいて結局は優等生に過ぎない「不良」たちが、五反田君を抹殺する。
私たちはそのことを哀しまねばならない。
 
五反田君の運命は哀しい。しかしその運命を変えることを夢想するとき、その身勝手な倒錯のなかに、私たちは優等生批判の不毛なループをこじ開けるものを一瞬、掴むともなく掴みかける気もするのである。
 
 
 
 
 

*1:今、歌詞を確認するためにネットで調べてみたところ、なんとなく予感した通り作詞者は秋元康だった。よかった。彼は思想性ゼロでひとびとが求めるものを提供できる方(褒めてます、要するにプロ)なので、作詞者を攻撃せず安心して、純粋に歌詞だけを批判できる。

*2:とはいえ「ちびまる子ちゃん」には、成績がよくておとなしいが人間として大事な何かをしっかり持っているっぽい「長山くん」というキャラクターもいる。安易なステロタイプに陥ることなく教室内のエコロジーを戯画化するさくらももこの視線はやはり一筋縄ではいかない。

*3:あるいは義務教育の期間に晒された蔑視への怨恨がかつてのガリ勉たちを学歴社会の維持へとガリガリとドライブするということもあるかもしれない。

寸評アーカイブ(8/27~11/2)――ハネケ、橋本治、柄谷行人etc.

以下は8月末から11月頭にかけて、本や映画、演劇などについて主にTwitter上で発信した短めのコメントを加筆修正のうえでまとめたものです。
 
 
8/27
ミヒャエル・ハネケ『タイム・オブ・ザ・ウルフ』
珍しく救いを感じさせるエンディング。いい映画だったと思う。でも彼らはトイレをどうしていたんだろう――些末な言いがかりのようだが、ハネケの描いた災害は薄汚れてはいても汚濁は免れている。たぶんこういうのを寓話と呼ぶ。
主要な感情移入の対象は母からまず娘エヴァへと移ってゆく。その移行が非常にわかりやすい。ではそこからさらに何を契機として、最終的に弟ベンただひとりに物語が委ねられる至るのか。そちらはやや不明瞭だが、おそらく少年(名前不明)に対するエヴァの無垢な好奇心が恋着へと移行した瞬間(盗んだ山羊を殺し隠れた少年の腕を掴む)であったと思う。
コミュニケーションがあるならばどこにでも社会は生まれる。小さな駅舎の中に、適度な秩序と適度な混乱を抱えた世界の縮図が形成されてゆく過程は、それ相応の苦しみは絶えないにせよ、基本的には観るものを落ち着かせる。劇中の人々とともに慣れてゆくのだ。しかしその慣れは、コミュニケーションの外で沈黙する者を排除する。
エヴァが少年に恋着した瞬間。混沌をそれでも世界と認知し、そこにある意味で甘んじながら、自分の思春期を開始しようとした瞬間。それは沈黙するベンが本当に独りになってしまった瞬間だった。感情移入も許すことなく、それゆえ我々観客からも孤立したまま、ベンは世界を救おうとする。
ベンの自己犠牲は果たされない。果たされることなく、秩序は回復する。殆ど時間が巻き戻ったかのような唐突の終劇。彼を留めた見張り番が言うように彼の「気持ちだけで充分」だったのか。因果関係はあくまで宙吊りだ。しかしこのハネケ的宙吊りは、今回に限っては悪意ではなく、彼の優しさであった。
 
9/2
橋本治『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』(河出文庫
外見以上に、とてもむつかしい本である。句読点やオノマトペのレベルから倉多江美作品の「水分」を分析する第I章から、めくるめく文体の変化を経て「すべて」を語り尽くすかのように優しい最終章まで、その流れは確かに圧巻である。
しかしこの「すべて」とは決して客観的な「世界のすべて」ではない。それは最終章の大島弓子論で明かされるように「意識」のすべて、この「私」にとっての世界のすべてなのだ。その意味で本書はそれ自体「一大妄想体系」としての少女漫画であると言っていい。
論考対象に合わせて文体を変えるということ、それは一種のパロディであり、実際に最終章の半分は大島弓子的文体のパロディから成っているのだが、ここで気づくことは、パロディとはとりもなおさず「妄想」なのだということだ。真面目も不真面目もどこか演出過剰に響くのは、それが妄想だからである。
橋本治」の「私」が「少女」という存在の「私」に託されるのだ。妄想でなくてなんだろう。しかし妄想であればこそ、パロディは軽薄な手品ではなくなるのではないだろうか。そしてその証拠は吾妻ひでお論だけがなぜか圧倒的につまらないという事実から明らかになる。
吾妻ひでおの漫画は徹底的に内面を排している。それなのに橋本治はそれを意識の問題として語ろうとしている。大島弓子吾妻ひでおを通じてほとんど同じことを語るというアクロバットを、最後の二章で橋本治は試みているのだ。しかし吾妻ひでおに関しては、それは全く失敗していると思う。
だが、もし彼が吾妻作品をも比類ないクオリティで論じきっていたとしたら、すべては天才的の超絶技巧に還元されてしまったかもしれない。要するに「軽薄」になってしまったかもしれないのである。吾妻ひでお論の失敗によってこそ、橋本治が何を伝えたく、何なら伝えうるのかが見えてくる。
他人にも「意識」があるということ、このことに気付けずに「意識」を抱え込んだ「私」たちの集合が、私と私以外を隔てるこの非対称の相互性を通じて「意識」のない「社会」というフィクションを、しかしのっぴきならないものとして「私」の外部に作り出している。それをいかに受け入れるかということ。
要するにいかにして「みんなだいすきだよ」と言えるかということ。本書に捧げられたこのエピグラフを、橋本治が当時においてどこまで自分自身の言葉としていたかは誰にも分からない。だが少女たちの声をポリフォニックに借りながら、それを何とか信じようとしていたのは確かだろう。いい本であった。
 
9/5
劇研アクターズラボ+村川拓也「人形の家」(イプセン作)@アトリエ劇研
ノラは6人によって演じられる。うち5人は舞台後方の壁に並び、夫ヘルメルに愛玩されるノラの声を演じる。ノラの「本体(?)」と思われる1人は終劇直前まで声を発することはない。
5人のノラの演技は「いかにも演劇らしい」誇張に満ちているが、必ずしも台詞の内容に即した表現を行うわけではなく、言葉と演技はしばしば乖離する。それは夫ヘルメルの演技にも言えるが、違いを挙げるとすれば1.彼は一人によって演じられ、2.演技の振れ幅も少ない。安定している。
ノラの声は5人であり、テンションはめまぐるしく変化する。しかもそれらの声から分裂した本体が可視化している。ノラとヘルメルの演技過剰はいずれも彼らの結婚生活が人形ごっこ的な虚構であることを明かしているが、夫があくまで同一性を保ち「ごっこ」を地で生きているのとは対照的である。
6人めのノラ本体は、劇中、ずっと夢遊病的にさまよっている。ときおり舞台=人形の家から出てゆこうとするが、5人の声が暴力的に引き戻す。夫が扉をしめ直し、閉じ込める――しかし力なく倒れる彼女を無理矢理に立たせ、クロークスタットに対峙させるのも夫である。この両義性をどうとるか。
ところでヘルメルは、1円玉を折にふれ床にばらまき、劇中の時間に節目を入れるというメタ的な役目も担っていた。これはクロークスタットの「はい!」という掛け声と類似の機能を果たしている。ヘルメルが体現する金銭という原理はノラがこれから見つめるべき社会の基本的な原理だ。
クロークスタットとの対峙は、ノラが人形の家から脱出する決定的な契機である。したがってノラ本体を立たせる夫は、彼女を閉じ込める私人トルヴァルではなく、ノラの変化を潜在的に用意した、銀行頭取としてのヘルメルーーノラが対峙すべき社会の象徴としてのヘルメルなのだろう。
ところでクロークスタットの演出も面白い。彼は時に不正を犯しつつしたたかにしかし孤独に社会をサヴァイヴしてゆこうとする男である。彼はマイクを用いて話す。彼の演技も一見、ヘルメルや5人のノラ同様の「演劇らしさ」を志向しているようであるが、実はそうでないことがわかってくる。
というのも彼は、クリスティーネとの和解という重大な心境の変化を伴う出来事に際しても、ノラを脅迫していた際の演説口調を全く変えないからである。彼は演技過剰なのではなく(たぶん敢えて)一本調子なのである。これは別カテゴリであって、多分ラスト、ノラ本体の語りもそこに属している。
クロークスタットの一本調子な語り方は、おそらく彼の根本的な生存の型のようなものなのではないか。演技を捨ててサヴァイヴァルを始めたとき、ひとは驚くほど単純な、一個のスタイルに還元されてしまう。抑揚のないノラ本体の語りもまた、仮想を剥がした彼女の生のスタイルなのだと思う。
だが気になることもある。クロークスタットははじめマイクを通して話していたが、和解の場面では肉声になる。ノラは彼の捨てたマイクを拾い、そこから声を発しながら舞台を去ってゆく。純粋に演出としてのクールさはあるが、しかしここにはノラの行く末に対する重いアイロニーが感じられる。
配布パンフレットにおいて村川拓也は実際、ノラの試みを「自分ひとりで自分の言葉を発見」することと解釈したうえで、それが「徒労に終わる」ことを示唆している。なぜなら「他者の視線から逃れることはできない」からだと言う。そしてマイクは他者の視線を誘導する装置に他ならない。
会場の外に出たノラのマイクは、路上を走るバイクの音を微かに拾っていた。私たちが70分前までそこで生きていたはずの外界の音。私たちは今劇場の中にいる、というか取り残されている、そんな風に感じた。劇中もっとも張りつめた瞬間であったと思う。
 
9/7
柄谷行人『意味という病』
構造に絡め取られ自らにとってさえ不透明な一個の「謎」として現れる自己の精神あるいは実存を「見る」ことで意味づけるのではなく、意味の手前でただ「生きる」とき、それでもなお明晰であるための方法が問われている。
第2版のあとがきにおいて柄谷自身はこの著作が「不徹底」であり強い嫌悪を覚えると述べている。が、たぶんそういう不徹底さに彼は最初から気づいていたのだと思う。この論集には、徹底的たらねばならないことも、徹底的たりえていないことも知っていた者の「もがき」のようなものが見える。それが愛おしい。
 
9/13
プリントサイズは葉書大から背丈以上まで、被写体スケールは解体された蟹身から瀑布まで。この二重の落差が半ばランダムに壁面をたわむれるとき、我々が絶えず焦点距離を操作しつつ捉えている不完全な断片の集積としての世界、という観念が鮮やかに具象化した。
 
9/20
佐伯一麦『震災と言葉』(岩波ブックレット
ここ数年、自分が大切にしてきたはずの「言葉」という言葉の社会的重要性が高まると同時にインフレ気味でもあるのが切なく、安易に「言葉の力」を叫ぶ言論に警戒しているのだが、他方で実際にいろいろ読んでみようという気にもなっていた。
辺見庸への評価は私の場合、ややアンビバレントある。いかんともしがたい誠実さの印象と迫力はあるものの、それは黙示録的というか預言的というか、その手の物言いとかなりすれすれのところで発せられているように思う。佐伯一麦のこの本は、その意味で対照的である。ありていに言ってしまえば、ずっと地味なのだ。
一番よかったのは、第一次戦後派には描けなかったものが「内向の世代」を待って初めて可能になったことを想起して、災厄に対して今発せられる言葉を現在の立場から否定し批判するのではなく、これから10年20年経って現れてくる表現を待とうとおっしゃっていたところ。必要なのは息の長い時間だ。
 
10/2
ブレンディのCM
「望み薄い」を「薄いって言われた」とわざと言葉足らずに反復させ、母親の「特別なものを持ってる」発言を契機に突然胸を強調し始め、女の子自身に「胸を張って自分を出しきる」とまで言わせた挙句「濃い牛乳を出しきる」で種明かしするのが「オッサン」であるのは象徴的だ。このCMの気持ち悪さはシチュエーション全体というより、当事者たちに役割上与えられた一見真面目な一連の発言が、校長のオッサンという男性権威の象徴が最後に発するひとことによって事後的にセクシュアルなダブルミーニングを帯び始めるという構成のほうにあるのではないか。要するに、下品なオッサンがよくやる「女の子に意図しないエロ発言をさせてニヤつく」というあれをそのまんまクリエイティブっぽいパッケージングでやっているだけなのではないかという疑念を拭い去れないのである。
 
穂村弘「ちんちんをにぎっていいよはこぶねの絵本を閉じてねむる雪の夜」
思わず涙しかねない感動的な一首。男根所有者であること――それこそ少年を呪う罪と哀しみと美しさの極限なのだけど、勃起もできずただ握られるがままの「ちんちん」が持ちうるやさしさに、我々は希望を託すべきなのではないだろうか。
 
10/25
三浦大輔『愛の渦』
アダム・フィリップスによれば精神分析とは「セックスをしないと決めた二人がたがいに何を話すことが可能なのかを問う」ことであるという。だとしたら三浦大輔の『愛の渦』はこの命題のあらゆるの要素を鏡像反転させた世界を描いているのかもしれない。
 
11/4
田島列島『子供はわかってあげない』
結局、ひとはラブコメには勝てないのだろうか、ギャグはときどき空回っているが、思わず泣いてしまったあとではそれもご愛敬。基本的に台詞まわしのセンスはかなりのものだし、絵柄も好み。「ああ、よかった」と思った――なんかよかったよ、ありがとうと言いたくなるのだ。
物語において一番難しいのは明ちゃんの存在だろう。M→Fのトランスジェンダーという設定だがその「必然性」はかなり希薄で、かといって属性そのものをギャグとする「オネエ」キャラのような「賑やかし」でもない(いかにもな外見もないし、カミングアウト持の衝撃も強調されない)。
必然性について言うと、設定上トランスジェンダーを「道具立て」にしているのはせいぜい「祖父からの勘当」の件くらいではないか。要するに明ちゃんという人間は「たまたま」トランスジェンダーなのだ。現実世界を生きる私たちのさまざまな属性が、用意された結末のための「伏線」などではないのと同様に。
屋上を見上げたら誰かがいて……から始まる怒涛のご都合主義的展開の「恣意性」は、明ちゃんが「たまたま」トランスジェンダーだったり阿堀さんが「たまたま」指圧師だったりというもう一つの意味での「恣意性」と混ざりあうことで作品世界を「そういうものとして」読者に受け入れさせている。
これら二つの「恣意性」の混在は、笑いの質のムラ(キレキレのものからあまりに野暮ったくガキっぽいものまで/あるいはネタの参照年代がばらばらだったり)と込みで、田島列島という書き手の性質を表している(あとがきを読んでもそう思う)。彼はすべてを真面目に、素でやってるのだ。

フィクションの無益――「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のこと

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なんとなく観ずに済ませてきたトリアーの「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を今更ながら鑑賞した。それによって、これまで観るのを渋ってきたことの正当性はしっかりと裏付けられた。つまり私はこの作品を「初めから救いがないと分かっている話を追うのはつらい」と言って避けてきたわけだが、鑑賞のさなかに感じていたのはまさしく「初めから救いがないと分かっている話を追うのはつらいなあ」ということだったのである。身も蓋もない言い方だが、そうとしか言いようがない。
 
この映画が喚起しようとしている情動は、怒りでも悲しみでもなく、おそらくただ「徒労感」に尽きるのである。徒労感。無力感。間違ってもそれを人生の虚しさと勘違いしてはいけない。この映画が私たちに悟らせるのは、おそらくフィクションという経験一般が隠し持つ砂を噛むような無益さ、意味のなさである。
 
仕掛けられる虚構の累乗。まず物語そのものの虚構性が前提としてあるわけだが、本作の場合そのうえさらに主人公セルマの空想がそこへ織り込まれる。またハンディカメラによる映像はドキュメンタリーを擬していて、それゆえここにも見せかけ、嘘がある。この第三の虚構の虚構性は、そこに第二の虚構(セルマの空想)が写り込むことで否応なくあからさまにされてしまう。だからこの物語がつらいのは、決してその真実らしさゆえのことではない。むしろ全て作り物であるという事実がやるせなさを生む。
 
何もかもがからくり仕掛けのように整然と進行してゆく。結末に用意された死も、用意された因果関係の連鎖から導かれる必然的な帰結でしかない。試みに「ドラマ」という語をこのような連鎖を切断する「出来事(あるいは奇跡)」の介入と理解するならば、私たちは本作においてドラマ抜きの死の論証を見せつけられていることになる。なぜなのか、と私たちは問うだろう。それがあくまでも作り物であるならば、何らかの救いを組み込むこともできたはずなのだ。なぜそうしなかったのか。私はなぜ、結果の先取りされた実験の過程をひたすらに凝視させられているのか。
 
セルマが言うように、私たちはそう思いさえすれば「最後の歌」を聴かずに済む。「最後から二番目の歌」でやめる権利は常に与えられている。これは「フィクション」なるもののほとんど完璧な定義であると思う。私たちはセルマの最後の歌を聴かずに済ますこともできた。あるいは、聴いてしまったとしても、私たちにとってそれは何ら「最後の歌」ではないのだ。言うまでもなく人生は続くのだし、フィクションの経験も繰り返される。最後の歌は際限なく現れ、それゆえどれひとつとして最後の歌ではなかったことになるだろう。だからこの映画においては思わず涙することすらも不快な、あるいは不潔な感じがする。そう思いさえすれば、私は最後の歌を聴かずに済ますこともできた。ではなぜそうしなかったのか。なぜ私は泣くことを選んだのか。
 
「これは最後から二番目の歌」であると言う権利が常に与えられていること――それはフィクションの希望であると同時に、絶望でもある。最後の歌が予め失われているがゆえに、フィクションの経験は本質的に無益であり、冗長なのだ。そのことを暴き立てている限りにおいて、私はこの作品について無邪気に「観てよかった」とはとても言えないし、そう思うことは原理的に禁じられていると思う。観なければよかったと言わねばならない。後悔し、物語に対して懺悔しなければならない。おそらくトリアーはそうしているのだろう。
 
とはいえ私がこの作品を見ながら漠然と抱いたつらさや無益さの感覚をこんなにも大袈裟にとりあげて反省するに至ったのは、結局のところビョークの演技がものすごかったからに他ならないし、主演女優が魅力的であるというそれだけで単純に「いい映画」と言うべきなのかもしれないが。
 
 
 

田崎英明『ジェンダー/セクシュアリティ(シリーズ・思考のフロンティア)』と『無能な者たちの共同体』のためのノート

以下は岩波書店の叢書「思考のフロンティア」の一冊として刊行された田崎英明ジェンダーセクシュアリティ』(2000年/以下GS)および同じ著者による単著『無能な者たちの共同体』(未來社、2007年/以下CI)からの引用の羅列である。
晦渋とも柔和ともつかない文体と裏腹に定義のない言葉(ジャーゴン)の濫用は比較的少なく、それどころかこの2冊は殆ど「定義集」とさえ呼ぶべき内容のように思う。ただしその定義も少なからず謎めいているし、体系だった整理がなされているとはとても言えない。そしてそのために私は、彼の著作によって何かを書きたいと感じつつも、まとまった文章の形でのメモを残すことを早々と諦めてしまったのだった。
 
なお引用中の下線はすべて引用者による。
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 ・性、セックス、セクシュアリティ
「〔生物学的な「性」の概念は「二つ以上の源泉に由来するDNAの組換え」と定義され、それは「個体数の増加」として定義される「生殖」とは別なのだから〕私たちはついつい性と生殖が切り離せないように思ってしまうが、生物学的にはこれは間違いであり、私たちがたまたま多細胞生物に生まれついたことからくる一種の偏見(多細胞生物中心主義?)に過ぎない」(GS, p.45)
 
「何かのキッカケで自分の中に入りこんだDNAを用いるためには、実は大切な前段階がある。それは、そのDNAを消化してしまわないことである。単細胞生物であっても、当然、外界から内部へと取り込んだ他の細胞を分解する酵素をもっており、それによって栄養摂取をする。それをしないこと、外部を貪り食わないこと、動物的な生の停止がセックスの条件なのだ」(GS, p.47)
 
「種という観点は〔…〕個体の過去と未来を、現にいま存在するその個体に似たものからしか考えない。個体は自分に似たもの〔…〕から生まれ、自分に似たものを後に残すのだとされる。〔…しかし〕細菌のセックスでは、自分自身が自分の子供である〔…〕が、それが自分に似ているとは必ずしも限らない。〔…〕自分の過去も、未来も、自分自身でありつづけ、別の個体になってしまわないにもかかわらず、自分に似ていない」(GS, p.56)
 
セクシュアリティとは、壊れやすさという相のもとで捉えられた生のことであると、とりあえずはいえるだろう」(GS, p.88)
 
・朽ちること
「神話的時間においては、実のところ、生それ自体が時間から救われる。神話的英雄の死後の存在は不死であり、朽ちることはない。だが〔…〕歴史上の数多くの死者たちは悲劇的な英雄ではないのである。死者もまた朽ちゆくことを免れえない。ここにおいて、死ぬことと朽ちることとの決定的な違いが明らかになるであろう。〔…〕死者はもはや死にえないが、それでもなお朽ちる存在なのである」(CI, p.134)
 
・見ること、同一化、サド・マゾ
「〔見るという行為は「見せられる」という受動性を孕んでいるが、見た者は見せられたものを「語り」によってさらなる他者に対し再現することで、自分にそれを見せた行為者に同一化するのだが〕私としては、このようなかたちでの受動性の能動性への転換、より正確にいうなら、自らの受動の否認を通して能動性へと到りつくあり方をサディズムと呼びたい。〔…〕だが、語ることはそのような能動性に尽きるのだろうか」(GS, p.4)
 
「〔映画の経験においては〕ある視線(観客の)が別の視線(登場人物の)と重ね合わされ、そのことを通じて、観客は登場人物(の身体)と同一化することができる。しかし、このとき、登場人物に合体し、その身体に寄生して棲みつくまで、観客の身体はどこにいて、どうしているというのだろうか」(GS, p.9)
 
「〔…〕支配されることを完全に学ぶことはできない。〔…〕学びうるとしたら、それは支配することを学びうるかぎりにおいて、支配者への同一化が可能なかぎりにおいてなのである〔…〕被支配者の、支配者の伝統との関わりは〔…〕一般に自己-他者関係と考えられる支配関係を、自己-自己関係へと置き換えるところにその特徴がある」(CI, p.98)
 
・装置の問題系
「装置〔「家父長制や資本主義、あるいは家族、国家、ネーション、言語」p.10〕は身体に働きかける。身体を触発する。身体が装置に組み込まれるのは、身体が備えている「触発されうる」という力能においてなのである。〔…〕人間が装置を選ぶのではない。人間による選択choiceではなく、装置による選びselectionなのだ。私たちは、自分の存在との関わりを、まずは「選りによって」というつぶやきとともに、はじめるしかない。〔…〕幸運であれ不運であれ、なぜ、ほかならぬこの私なのか。このつぶやきは、装置と人間の境界線上に生まれるものだ。このようにして、私たちは自分の個体性に向き合わせられる」(GS, p.12)
 
「身体が持つ、触発されうるという力能は、生の根源的な受動性の問題なのだ」(GS, p.13)
 
・日常性、生き延び、「機械」
「私たちの日常性というのは、何らかの問いや疑いに対する抵抗として存在する。ある意味では、私たちの生をばらばらにしてしまうものへの抵抗こそが日常性を生む。〔…〕スタンリー・カヴェルは、日常性というのは、懐疑論による(共同体の)破壊をくぐった後の、サヴァイヴァルした生の光景であると考えている」(GS, p.30)
 
「私たちの社会で日々を生き延びることは、誘惑に打ち勝つこと、誘惑する声からサヴァイヴァルすることと同義である。それは、他者へと晒されることなしに生きていける場所を確保することである。自分の「何者であるか」、自分の自分に対する親密性は、他者へと晒されている傷つきやすさからのサヴァイヴァル、生還として初めて可能になる」(GS, p.88)
 
「〔習慣的行為の領域を表す「エートス」とはカヴェル的に捉えられたウィトゲンシュタインの「生活形式」に近いとも言えるものであり〕身体のもっとも機械的な次元であり、人間の主体性の支持体ともいうべきものを形成している。〔…〕機械性とは〔言語や歩行のように〕このような習得することしかできないもののことであり、けっして、何らかのデザイン(意図)やプログラムの先行性を意味するのではない。むしろ、純粋な意図、志向性の実現とは、収容所的な空間において可能になる〔…〕収容所とは、機械性としてのエートスの破壊なのである。〔…〕機械ではない人間は、ただの生命、生命でしかない生命となる」(CI, p.94)

・政治と歴史
「ポリスとは、巨大な墓である。〔…〕それは死者たち、戦争で自分たち――「われわれ」――のために死んだ死者たちを記憶しておくためのものなのだb。歴史とは、このように、死者たちの中から、自分たちのために死んだ者を選び出す操作〔…〕自分たちの過去と他者の過去とを選り分ける操作である」(CI, p.26)

「シュミットの重要性は、社会契約論が「自然状態」として、つまり、主権国家の「前史」というかたちで歴史化して、国家のうちにしまい込んでしまったかに見えた「国家の存在」を、もう一度、「例外状態」として、国家と共時的に存在するものとして明るみに出したところにこそある」(CI, p.46)

「現在進行しているのは〔…〕「リスク回避」の何重にも張り巡らされた網の眼によって、何かが起こるということと怒らないということの境界が、とりわけシミュレーション・テクノロジーを通じて、限りなくぼやかされ、「真偽」の問えない領域が現実の中に広がりつつある事態ではないか」(CI, p.222)
 
・2つの「非器官的な身体」
A「自己」の内在的な生としての
「生きるということは、外界からの栄養摂取に先だって、まず、自分自身を貪ることではないだろうか。〔…〕そこには、外部はないし、したがって他者もいない。〔…〕自己とはこのような生の純粋な内在性である。〔…〕動物的な生を構成する外部/内部という区別によって可能となる能動/受動の区別よりも深いところで、生は、自己を受け取り、それを享受し、「老い」によってなされるがままにされる」(GS, p.15-16)
 
B 装置に捉えられポジションづけられた生としての
「〔シャルコー的な催眠暗示の手法から精神分析への移行は〕可視性の領域を去り、ことばの領域へと移行することを意味している。〔…〕精神分析のポテンシャルは、したがって、「見ること」を通じて補足してくる装置群への抵抗にこそある。〔…〕見えるものによる誘惑をことばによる誘惑で置き換えること〔…〕非器官的な身体を可視的な器官的身体から切断して言説と関係づけること」(GS, p.22)
 
「私としては、言語による非器官的なものへの移行に、「自己」との関わりを見ておきたいのだ。つまり、言説および装置は、ポジション(それは非器官的であるが、基本的にはすべて「私」〔=自我「外界に対して働きかけるための座標系の原点」p.15〕である)へと器官としての身体を配分する。ポジションの集合と器官的身体の集合との対応をつけるのが、言説であるといえる。それに対して、「自己」はポジションではないし、また、それは内在的生であるのだから、当然、器官的な身体でもない。言語を装置とは別の平面に展開できないものだろうか〔…〕まずは、言語に対する「私」の支配権(サディズムの基本はこれである)を放棄すること」(GS, p.27)
 
・自我と自己
「「私は語る」〔「すべての発話に付随する空虚な発話」p.62〕が確保するのは発話ないし言説の単一性=単位である。この「私」が、経験的に単一の、あるいは同一の人間であるかどうか、それがたった一人であるかどうかとは別の話である」(CI, p.63)
(Cf. 歴史との関連から:「歴史は、個々の「私は語る」を抹消し、「それは語る」で置き換える。「それ」とは、あるときは「民族」であり、あるときは「国家」であり、あるときは「存在」である〔…〕」p.63)
 
「〔自他の差異ゆえにコミュニケーションは必要となるが、あらゆる発話主体は「私」である〕「私」は、このように何にでも憑依する。何かに取り憑いているかぎりでそれは存在する〔…〕コミュニケーションとは、一面で、このような「私」の憑依のプロセスであり、したがって、そのかぎりでコミュニケーションの可能性――あなたと私の違い――の否定なのだ」(CI, p.114)
 
「「自我」というのは、「他者の廃棄」の記憶によって生み出される「疚しい意識」であるといえるだろう」(CI, p.171)
 
ベンヤミンの認識論は〔…〕言語が否応なく振るってしまうそのような〔フィヒテ的な〕遂行性への批判として目論まれていると理解すべきではないのだろうか。つまり自我=私の措定の批判である。〔…〕たしかに、私たちはもはや言語について素朴な記述の理論に後戻りすることはできないだろう。しかし、それでは、言語の遂行性を無批判に受け入れて、それで事足れりとしていてよいのだろうか」(CI, p.169-172)
 
・名と呼びかけの問題
名を呼ぶこと、それは私の無力さの表明にほかならない。もしも、それ以外のことができるのなら――たとえば、駆け寄って抱き起し、手当てをするとか、あるいは、襲いかかる敵を倒すとか――私はそうしただろう。しかし、できないから、ただ名を呼ぶのである。〔…〕それが失われたことに対して、自分が何もできなかったということの表明である」(CI, p.33)
 
「名を呼ぶこと〔…においては〕二人称として直接呼びかけることができるものと、そうはできない、三人称にとどまるものとの違いがある」(CI, p.157)
 
「一人称と二人称の間の交代可能性は、相互の命令によって一つの閉域をかたちづくるだけである。それが開かれるためには、三人称の導入が必要なのだ。ただ指示対象として言及されるだけであって、みずからは発話のイニシアティヴをとりえない存在、そのような三人称、つまり、自己である」(CI, p.203)
 
・「人類」
「自己が構成する共同性を私は共同体と呼びたい。それは、社会的なものものとは区別されるだろう。共同体は、新しくやって来た者〔…〕によって誘惑され、自分のこれまで来た道を踏み外すものたちによって構成されている。それに対して、社会は、新しく来た者に命令する。黙れ、私のいう通りにしろ。私はお前の手本である」(GS, p.94)
 
「共同体は開かれている。したがって、その境界を区切ることはできない。ということは、存在するのはただひとつの共同体でしかない。それは、「人類」である。〔…〕人類というのは、誘惑されて社会から道を踏み誤るその瞬間に形成される存在である」(GS, p.95)
 
おまけ:精神分析について
精神分析の問いは、「なぜ無ではなくて存在があるのか」という形而上学的問い〔…〕の人間学ヴァージョンであるということができる。「なぜ人間は世界の存在に、他者の存在に耐えて生きることができるのか」と精神分析は問うのである」(GS, p.114)

フロイトのテクストはそれ自体夢のようなもので、読んでいるときはつながっているように思えるのだけれど、後から振り返ってみると部分部分の論理の接続がよくわからなくなってしまう」(CI, p.138)
 
 
 

レオ・ベルサーニ&アダム・フィリップス『親密性』檜垣立哉・宮澤由歌訳、洛北出版

 

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非常に魅力的な――あるいは誘惑的な――書物である。
というのはつまり、出会うタイミングによっては自分の実存を不当なまでに読み込んでしまいかねない、そういう類の一冊であるということだ。
要するに問題は自己と他者、そして愛に関わっているのだから。
 
例えば本書の第一章には初っ端から「精神分析は、セックスをしないと決めた二人が、たがいに何を話すことが可能なのかを問うものである」というかなり「グッとくる」定義が登場する。
しかも「精神分析は…」などと言いつつ実のところ、この言葉を基点として展開される議論は正式の分析状況よりもむしろ、そこから(意図的に、あるいは意図せずして)絶妙に逸脱した二者関係を主題としている。したがってこの定義は必然的に私たち自身のごく日常的な――セックス抜きの――二者関係全般に対する意識へと跳ね返り、そこに得も言われぬ緊張感をもたらすことになるだろう。
 
続く「恥を知れ」と題された第2章はさらにエキサイティング、というかあまりに刺激が強すぎるかもしれない。
主題はゲイ文化における「ベアバッキング」=「コンドームをつけないアナルセックス」、即ちHIVの感染リスクを承知のうえで行われる危険な性交渉である。
その議論は基本的にクィア理論家ティム・ディーンの研究を通じた間接的なものに留まり、ベルサーニ自身は具体的な行為そのものについて必ずしも明確な意志表明をしていない(微妙に否定的な態度を取っている)のだが、それでも可能な限りラディカルな結論を引き出そうとしていることは間違いない。
つまり感染させ(られ)ることを意図した危険な性交渉は、確かに自己と他者双方に対する破壊的な行為であるのだが、しかし同時にそれはウィルスの伝達(コミュニケーション)を通じたある種の共同体(コミュニティ)の形成でもある、というのである。
ベルサーニは同章末尾で次のように述べている――「おそらく、自己剥奪そのものは、自我の抹消というよりは自我の散種といった、自我膨張の一種としてとらえなおされなければならないのではないか」(100頁)。
 
自己破壊と自己愛の表裏一体を述べたこの一節に限って言えば(そこに至るまでの経緯はどうあれ)それはごく卑近な共感を広く読者に引き起こしうる、とは言えるかもしれない。
ところが第3章「悪の力と愛の力」にきて話はさらに怪しげな方向に向かう。
 
そこにおいて前章のテーゼは、半ば居直りのような仕方で反転される。
自己剥奪さえも一種の自己膨張であるとすれば、いわゆる「隣人愛」に見られる普遍的規範、即ち他者のために他者と関わるということは端的に不可能である。
精神分析は「わたしたちは自分だけを愛している」(128頁)のだということ、「〔自己以外の〕対象を愛すること〔…〕はどこか奇跡的な事態」(126頁)なのだということを暴露してしまった。ベルサーニが試みるのは、このことを「愛の脱神秘化」(それはつまるところシニシズムに他ならない)とは別の方向に導くこと、つまり他者への関係がナルシシスティックなものでしかないことを受け入れたうえで非暴力的な他者への関係の可能性を探ることである。
 
「誇大化した自我の刺激〔=ナルシシスティックな快楽に繋がる攻撃性〕が、理性的な意志〔自我の膨張をコントロールし他者の尊厳を訴える道徳的規範の設定〕によってではなく、自我の破壊的ではない性愛化によって未然にくいとめられることはないのだろうか」(122頁)。
 
この問いに対して同書が提示する答えが「非人称的ナルシシズム」なるものであり、ベルサーニはそれを『パイドロス』に見られるプラトン主義的な愛(濁さずに言うならばそれは要するに「少年愛」なのであるが)の理論から引き出している。
 
ソクラテスが愛(エロース)と呼ぶのは、地上において、かつて不死なる魂として天界を彷徨っていた頃に間近で見たはずのものを彷彿とさせる美(少年)と出会った際にわれわれを捉える狂気じみた感情である。
しかしここのとき愛されている者は単に美を想起させるだけではない。天界において魂は各々に特定の神に導かれていたのであるが、彼が地上において愛するのはそのような神の本性を備えた少年である――つまり、かつて自分と同じ神のもとに仕えていたであろう者を、彼は愛するのだ。
それゆえ彼が愛するのは結局のところ自分に似た者であることになる。そして愛される者(少年)の側がその愛に応えるときにも、彼が愛しているのは実のところ、愛する者が抱く少年自身のイメージに他ならない。
その意味でこの愛はナルシスティックなものである。しかしその限りにおいて、それは「純粋な対象愛」でもある。愛する者の愛する自己は愛される者の自己でもあり、愛される者は愛する者の自己として愛される自己を愛する――「愛する者と愛される者(この二者をまだ区別する必要があるだろうか)の双方におけるナルシスティックな愛は、他性を知ることとまったく一致する」(141-142頁)。
 
これが「非人称的なナルシシズム」である。非人称的といわれるのはそこで愛されるのが人格的な自我=私(moi)ではなく、あくまでも未規定の再帰性を表す自己(soi)であるからだろう(ベルサーニは「自己」と「自我」をはっきり区別して用いている)。「寛容なナルシシズム」(143頁)とも呼ばれるこの愛は「能動的に愛する者と受動的に愛される者との対立を、ある種の相互的な自己理解を設定することによって解体する〔…〕同一性と差異性とのあいだの対立そのものが、存在を構成するカテゴリーとして無意味なものになるのだ」(同頁)。
 
ベルサーニはこの理論を「愛の力によって悪の力を滅ぼす〔…〕あるいは少なくとも回避させる」可能性として提示している(128頁)。この「回避させる」という慎重な言い回しには注意が必要だろう――というのも彼はナルシシズムが孕む「悪の力」を認めはするが結局のところ引き受けることをせず、それを文字通り「回避」し、悪を免れたナルシシズムの在り方をある種の「神話」のなかに、こう言ってよければ想像的な仕方で見出そうとしているにすぎないように思われるからだ
 
議論の詳細は忘れたが、かつてベルナール・スティグレールの『愛するということ――「自分」を、そして「われわれ」を』を読んだ際にも同じような失望を感じたことがあった。そこではナルシシズムという現象があまりにナイーブに肯定されているように思ったのだ。
確かにベルサーニの『親密性』はナルシシスティックな悪のどぎつさに対して、スティグレールよりも遥かに自覚的である。しかし、第2章において自己剥奪=自己膨張の究極的なモードをかくも衝撃的な仕方で提示していたことを考えれば、第3章は議論をいと美しき物語へと昇華するのがあまりに急速すぎるのではないか。愛の力を云々することの危険性について譲歩しつつなされる次のような正当化は、どこか過剰に楽観的な響きを持ってはいないだろうか――「わたしたちが愛を真面目に考えようとすれば、つまり愛をナルシスティックな浪費として真摯にとらえようとするならば、そのときわたしたちは、まずは、他者の意志との差異を大事にしようと望むだけで、ほとんどの場合、際に対する殺人的な敵対心とは関わらずにいられる〔…〕」(129頁)。
 
ここでは「真面目」さというきわめて怪しげな規範を以て、悪がナルシシズムの本質から排除されている。本当にそうだろうか。仮にそうなのだとしても、私たちの実態とは明らかにかけ離れたナルシシズムの理想を提示することに、果たしてどれほどの批判的な力が備わっているのだろうか――おそらく、すべては疑わしい。