和製オドラデクの生活環

きみの物語は終わった/ところできみはきょう/おやつに何を食べましたか――富岡多恵子「静物」

メンヘラ・こじらせ・屈折

 人間椅子・和嶋慎治の自伝『屈折くん』(シンコーミュージック、2017年)の帯文に次のような記述があった。
「メンヘラ」でも「こじらせ」でもない、僕を作ったのは“屈折"だった――
メンヘラ・こじらせ・屈折の三幅対。これを目にしたとき、わたしは文字通り目から鱗が落ちる思いがした。かねてより個人的に考えたいと思っていたことにかんして有効な整理を与えてくれるような気がしたのである。
 以下、この三つの概念について互いに対照させるかたちでその特徴を描きだしてみたい。むろんとりたてて明確な根拠もない思いつきなので、あまり鵜呑みにはしないでほしいと思う。
 
1.メンヘラ
 三幅対において、まずメンヘラは「表層性」と「非歴史性」の二点によって特徴づけられる。一つ目の「表層性」についてまずは誤解のないよう明言しておくと、これは決して「ポーズだけだ」とか「演技にすぎない」とかいった低俗な中傷を意図したものではない。むしろそういった中傷が前提している純粋な「素」のようなものがごく自然に信じられなくなった果ての状況を示しているのであって、メンヘラという事象は見かけに反していわゆる「内面世界」とかそういうものとは全くかかわりがないのだ。たしかに精神の問題ではあるが、その精神は初めから明るみのなかに曝されている。湿気がないといってもいい。メンヘラ概念にかんしては個を殺すその雑な暴力性を徹底して嫌悪するか(cf. 大森靖子)、あるいは一種のカルチャーとして戦略的に肯定するか(cf. 松永天馬)、傾聴に値する言説はその二種に大別されるが、いずれもそれが表層的であるがゆえに記号的であるという同じ一点に根拠を持っているようだ。つまりこの語がきわめて安易な蔑称として流布するのも、あえてそれを自称として引き受けながらカルチャーを形成する余地を残すのも、それがパフォーマンスの次元における一定の型の選択に本質的に依拠しているからにほかならないのである。
 二つ目の「非歴史性」は、要するにメンヘラとは常に「現在」にかかわる概念であるということを意味する。たしかに第三者が過去のいくつかの行動を根拠にひとを「お前はメンヘラである」と名指すことはありうるが、主観的にはメンヘラであることは来歴に依存しない。むしろ後先もなくただ今ここに存在しているという事態にどうしようもなく囚われたときにこそ、ひとはメンヘラとなるのだというべきだろう。
 
2.こじらせ
 自らの過去を歴史化・物語化しうるに至ったとき、彼/彼女もはやメンヘラではなく「こじらせ」に近づいている。メンヘラのメンヘラ性をもっとも純粋に表現するメディアは機動性の高い「ブログ」だが、こじらせの場合は「自伝」がそれにあたる。基本的に「こじらせる」というのは、ほどほどにやり過ごすべきとされるものとの折り合いがうまくつけられないままそれが実存の中心に居座ってしまった状態をさす。だからそこには過去の葛藤や格闘があらかじめ含意されているし、一定の歴史性を帯びている。メンヘラとこじらせはこの点をもって対照される。
 ではその「やり過ごすべき」ものとは何かというと「女であること」とか「童貞であること」とか、あるていど普遍的な問題であり、ゆえに「折り合いをつけた世間」と「つけられなかった自分」との乖離がいやおうなく理解されることとなる。この普遍性が次に見る「屈折」との相違をなしている。
 
3.屈折
 屈折はメンヘラの表層性に対しどこまでも内面的であり、こじらせの普遍性に対してどこまでも個人的である。ガラスや水を通過した光が折れ曲るように外界からの刺激は内面にあってあらぬ方向へ反れてゆき、しかもその角度は個々に特異的なものだ。刺激は内面に鬱積して屈折を深めてゆくから、メンヘラとは異なりある程度の時間幅は含意されているといえるが、祭りの後の哀愁をおびる「こじらせ」とも異なり、屈折はあくまでも今まさに歴史化されつつある過程を指している。だから屈折はつねに現在形で「屈折している」といわれねばならない。
 
 ここまで「表層的」「内面的」「歴史的」「非歴史的」「普遍的」「個人的」といったポイントに着目してメンヘラ、こじらせ、屈折の三幅対を比較検討してきた。いうまでもなくメンヘラがいちばん(いわゆる)ポストモダン的で、屈折の概念は非常にモダン的あるいは保守的でさえある。だが「メンヘラ」の表層性がつねに第三者からの暴力的なスティグマタイズを誘い、主体的な引き受けの戦略もシニシズムとギリギリの闘いであらざるをえない危うさを帯びているのに対して、また「こじらせ」が否定的なかたちであれマジョリティの規範(何かと折り合いをつけることへの)を前提せざるをえなかったことに対して、個と内面をとりあえず信じるところから出発する「屈折」の姿勢が一つ袋小路を切り開くポテンシャルを秘めているのではないかと考えてみる余地はあるように思われる。ここではまだごく簡易な準備作業として整理をおこなってみたにすぎないが、 今後も「屈折」の可能性についてはさらに思考してゆきたい。