和製オドラデクの生活環

きみの物語は終わった/ところできみはきょう/おやつに何を食べましたか――富岡多恵子「静物」

「優等生」批判についての覚え書

 
私と同年代(昭和末期から平成一桁生まれのひと)の方であれば「0点チャンピオン」という歌をご存知かと思う。NHK教育のアニメ版「忍たま乱太郎」のエンディングテーマのひとつだが、Aメロ部分の歌いだしは次のようなものである。
 
 お勉強ばかり がんばっても
 ダメなのさ
 逆上がりができなくちゃ
 けっこう カッコ悪い
 
私は幼少の頃からこの歌詞が嫌いだった*1。言うまでもなく、自分がまさしくこの歌の標的にされている気がしたからだ(逆上がりはできたけれど)。
要するに学校の「お勉強」はできるけれど「逆上がり」的なものができないひとたち。
彼ら(あるいは私たち)をここではさしあたり「ガリ勉」と呼んでみる。
続くBメロは歌う。
 
 さあ友よ 立ち上がれ
 競争はやめて 思いきり
 さあ外へ 元気よく 飛び出そう
 
だが、元気よく飛び出すことで始まるのは別の競争(かけっこ)であるだろう。ここに歌われているのは競争の否定ではなく別種の競争、「0点」の君が「チャンピオン」になれる競争の肯定である。そしてさらに重要なのは、かけっこで勝つ方が「お勉強」よりもずっと「大事」なのだということ。つまり0点チャンピオンは100点チャンピオンの等価なオルタナティブではなくて、この歌によれば0点チャンピオンの方がずっと、偉いのである。
こういう価値の逆転が単純だとさかしらな嘲笑をする気はない。ただ問題は、果たしてそれが見かけ通りの「価値の逆転」なのかということである。言ってしまえば、テストのチャンピオンであることよりも0点チャンピオンであることの方が「大事」だというのは、アウトローの皮を被った体制的思考の追認に過ぎないのではないか。よく考えれば明らかなように、少なくとも学校という社会において「ガリ勉」は全くもって強者ではない。サビの「大事なのは女の子にもてることだよ」という一節など、ひとかけらの容赦もなく世の非情を突きつけている。
だからここでいう「逆上がり」的なものというのは「体育」という単にニュートラルな教科を指すのではなくて、予め「もっと大切なもの」という社会的な規範化がなされた何かだ。例えば山田詠美の『ぼくは勉強ができない』新潮文庫版の宣伝文が、この価値観をひとことで要約している。
 
 ぼくは確かに成績が悪いよ。でも、勉強よりも素敵で大切なことが
 いっぱいあると思うんだ――。
 
したがって世に言う「ガリ勉」とは、勉強ができるというだけで、人間としてもっと「素敵で大切なこと」を失っているひと、のことだと定義できる。こういう表象は巷に溢れかえっている。最近では2年ほど前に見た映画版の「悪の教典」に成績はいいが冷淡で自己中心的という感心するほど典型的なガリ勉キャラが登場していたし「ちびまる子ちゃん」の丸尾クンなんて明らかに人間として大事な何かを欠いている*2
 
さて、ここまではとりあえず私怨である。だがいま冷静に考えてみても「0点チャンピオン」のイデオロギーは批判に値すると思う――2つの点で。
1.お勉強ばかり頑張っても、という物言いは全くもって学歴社会への批判にならないどころか、むしろそれを下支えしているという点。実質的に無力な「倫理上の」貶めを盛り立てることによってエリートのシステムは逆説的に安泰を保てるだろう*3
そして、次こそが私たちの論点なのだが、
2.この歌は結局「勉強もスポーツも誰にも負けない子」については見てみぬふりをしているということ。というのも「0点」に居直る君は、100点チャンピオンにかけっこであっさり負けうるのだ。
この圧倒的な権威をさしあたり「優等生」と呼んでおこう。
 
「ガリ勉」は実質的には弱者であるにもかかわらず「エリートの戯画」に堕すことで、いわばエリート主義や学歴社会をよりよく回すための体のいい生贄となっているのだった。「ガリ勉」への批判は見せかけだけのパンクであって、結局は現状の温存にしかならない。
それゆえ多少とも何かを揺さぶりたいのならば「優等生」こそ批判しなければならないのだが、「ガリ勉」蔑視と違って倫理的な後ろ盾を欠いているのでこれはなかなか難しい。出木杉君はあくまでも「いいひと」なのである。
出木杉君は殆ど完璧である。だがそんな彼にも唯一できない芸当があり、それは物語の主役を張るということだ。この一点において、出木杉君はのび太君に負けてしまう。これをもう少し一般化してみると、要するに出木杉君は「ちょっとつまんない」。
これは致命的な欠点である。そこで出木杉君的なものの権威は、ただの優等生とは「一味違う」別種の強者によって相対化される。
それが「頭のいい不良」である。
この「頭のいい不良」は優等生やガリ勉と並ぶ一大ステロタイプだというのは説明するまでもないだろう。そして彼らの強みは、それだけで主役を張る素質十分という点にある(ぱっと思いつくものだと吉田秋生BANANA FISH」のアッシュ・リンクスとか)。だが、別に私はここでフィクションにおけるキャラクター類型について論じたいわけではない。
 
私にとって興味深いのは、この三つのタイプは学者とか知識人あるいは批評家と呼ばれるひとびと(面倒なので今後は「インテリ」と総称します)に典型的なキャラクターでもあるということだ。
取り敢えず「ガリ勉」タイプについては措いておこう(「ガリ勉」タイプのインテリというのはこうして「取り敢えず措いておく」ことができるタイプの知識人だ)。面倒くさい――措いておけない――のは「不良」と「優等生」である。そして両者の関係は殆どの場合、「不良」タイプのインテリによる「優等生」批判として現れる。わかりやすい例としては浅田彰鶴見俊輔を思い浮かべてもらえばいい(もちろん両者は両者で全く異なるのだが)。インテリというのは原則的には(つまり無反省の状態では)「ガリ勉」あるいは「優等生」であり、ゆえに彼らは相応の自己意識で以て、そこからの差異化を図ることで初めて「不良」でありえたのだからこれは当然だろう。
私はこの種の「優等生」批判に対して非常にアンビバレンツな感情をもっている。
私自身はいわゆる「不良」ではなかったけれど「ガリ勉」と同様に「優等生」というレッテルもかなり忌避していたし、そういうステロタイプに押し込められないような工夫も人生の折々でしてきた。もちろんそれはそれで自分にとっては生きるうえでの知恵だった。しかし仮にインテリの「優等生」批判がそういう自意識の抵抗の延長でしかなかったり、そうでなくともせいぜい「あいつらつまんねえ」という美的な判断以上の射程を持たなかったりするならば、やはり充分ではない。実際そういう例は腐るほど存在しているだろう。だが(知識不足なので個別の検討は控えるけれど)先述した鶴見の不良意識などは、おそらくもっと重要なものに狙いを定めていたのではないか。充分な思慮のもとでなされる限り、「優等生」批判は私的な自己呈示の問題を超えた、公共的で批評的な意義を持ちうるとも思われるのだ。
 
昨年以降、社会運動の文脈で圧倒的なプレゼンスを示している「若者」たちに対する原則的な左派からの批判は、私の観測範囲では――一般的なイメージとは裏腹に――彼らの核にある「優等生的なもの」に向けられているように見える。そして私自身、その感覚を共有するところが大きい。もしかしたら本当はもっと別の名称が適切なのかもしれないが、今のところ「優等生」(あるいは「学級委員」「生徒会」)というベタなモチーフを援用するしかない何かがある。そしてその「何か」それ自体が批判すべきものであることはおそらく、確かである。
 
最近の就活現場を批判的に分析する記事で、昔ながらの「優等生」を忌避してもっと柔軟で「面白い」ひとを捕まえる方向に試験内容がシフトしても、結局は新種の優等生が捕まるにすぎない、という意見を見たことがあるが、これはもっともである。「優等生」とは必ずしも潔癖で品行方正とは限らない。その時代その時代でオトナや社会が何を求めているのかを明確にキャッチできるのが「優等生」であるとすれば、クラブカルチャーに親しむ等身大の若者像を活発な政治的アクションと組み合わせて提示することもまた、我らの時代の「優等生」の必須条件であるに過ぎない。
出木杉死すとも優等生は死なず、である。
だが、誤解のないように言っておくと、私はそれすらも、そのものとしては決して悪くないのではないかと思っている。生きにくさを抱えていないように見えるひとが、その生きやすさを天賦のものとして享受していると思いこむのは浅はかである。社会の価値観に乗っかることが必死のサバイブであるとき、それを批判する権利は誰にもない。
 
主役を張れる優等生が現れた今(あくまでインテリの言説空間内における)優等生vs不良の対決は「どっちが真に面白いか」という単に美的な意地の張り合いに堕してしまう危険がこれまでになく高まっている。そして対決の基準が美的なものだからと言ってそこに唯一客観的な決着がないとも言いきれないわけで、そのように考えてみると――すでに読めてきたと思うが――優等生批判の問題とはまさに罠だらけの迷宮としか言いえないものなのだ。そして私自身、はっきりとした脱出法を提示するなど到底できそうもないのである。
ゆえに、この文章には結論がない。結論のないまま、ただひとつのイメージだけがぼんやりと浮かんでいる――村上春樹ダンス・ダンス・ダンス』における五反田君のこと。五反田君は愛すべき「優等生」である。しかし彼は同時に、ワタヤノボル的な悪の系譜にも属している。この矛盾が五反田君に特別なきらめきを与える。
五反田君の体現する善と悪は、表と裏や外皮と核のような単純な関係にあるのではなかった。優れていること、強者であることがしばしば悪であるとすれば、それはそこに往々にして鈍感さが伴うからである。五反田君的な悪の複雑さは、そのような鈍感さが真っ先に抑圧するもののひとつである。鈍感な優等生たち、あるいは鈍感である限りにおいて結局は優等生に過ぎない「不良」たちが、五反田君を抹殺する。
私たちはそのことを哀しまねばならない。
 
五反田君の運命は哀しい。しかしその運命を変えることを夢想するとき、その身勝手な倒錯のなかに、私たちは優等生批判の不毛なループをこじ開けるものを一瞬、掴むともなく掴みかける気もするのである。
 
 
 
 
 

*1:今、歌詞を確認するためにネットで調べてみたところ、なんとなく予感した通り作詞者は秋元康だった。よかった。彼は思想性ゼロでひとびとが求めるものを提供できる方(褒めてます、要するにプロ)なので、作詞者を攻撃せず安心して、純粋に歌詞だけを批判できる。

*2:とはいえ「ちびまる子ちゃん」には、成績がよくておとなしいが人間として大事な何かをしっかり持っているっぽい「長山くん」というキャラクターもいる。安易なステロタイプに陥ることなく教室内のエコロジーを戯画化するさくらももこの視線はやはり一筋縄ではいかない。

*3:あるいは義務教育の期間に晒された蔑視への怨恨がかつてのガリ勉たちを学歴社会の維持へとガリガリとドライブするということもあるかもしれない。