和製オドラデクの生活環

きみの物語は終わった/ところできみはきょう/おやつに何を食べましたか――富岡多恵子「静物」

寸評アーカイブ(8/27~11/2)――ハネケ、橋本治、柄谷行人etc.

以下は8月末から11月頭にかけて、本や映画、演劇などについて主にTwitter上で発信した短めのコメントを加筆修正のうえでまとめたものです。
 
 
8/27
ミヒャエル・ハネケ『タイム・オブ・ザ・ウルフ』
珍しく救いを感じさせるエンディング。いい映画だったと思う。でも彼らはトイレをどうしていたんだろう――些末な言いがかりのようだが、ハネケの描いた災害は薄汚れてはいても汚濁は免れている。たぶんこういうのを寓話と呼ぶ。
主要な感情移入の対象は母からまず娘エヴァへと移ってゆく。その移行が非常にわかりやすい。ではそこからさらに何を契機として、最終的に弟ベンただひとりに物語が委ねられる至るのか。そちらはやや不明瞭だが、おそらく少年(名前不明)に対するエヴァの無垢な好奇心が恋着へと移行した瞬間(盗んだ山羊を殺し隠れた少年の腕を掴む)であったと思う。
コミュニケーションがあるならばどこにでも社会は生まれる。小さな駅舎の中に、適度な秩序と適度な混乱を抱えた世界の縮図が形成されてゆく過程は、それ相応の苦しみは絶えないにせよ、基本的には観るものを落ち着かせる。劇中の人々とともに慣れてゆくのだ。しかしその慣れは、コミュニケーションの外で沈黙する者を排除する。
エヴァが少年に恋着した瞬間。混沌をそれでも世界と認知し、そこにある意味で甘んじながら、自分の思春期を開始しようとした瞬間。それは沈黙するベンが本当に独りになってしまった瞬間だった。感情移入も許すことなく、それゆえ我々観客からも孤立したまま、ベンは世界を救おうとする。
ベンの自己犠牲は果たされない。果たされることなく、秩序は回復する。殆ど時間が巻き戻ったかのような唐突の終劇。彼を留めた見張り番が言うように彼の「気持ちだけで充分」だったのか。因果関係はあくまで宙吊りだ。しかしこのハネケ的宙吊りは、今回に限っては悪意ではなく、彼の優しさであった。
 
9/2
橋本治『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』(河出文庫
外見以上に、とてもむつかしい本である。句読点やオノマトペのレベルから倉多江美作品の「水分」を分析する第I章から、めくるめく文体の変化を経て「すべて」を語り尽くすかのように優しい最終章まで、その流れは確かに圧巻である。
しかしこの「すべて」とは決して客観的な「世界のすべて」ではない。それは最終章の大島弓子論で明かされるように「意識」のすべて、この「私」にとっての世界のすべてなのだ。その意味で本書はそれ自体「一大妄想体系」としての少女漫画であると言っていい。
論考対象に合わせて文体を変えるということ、それは一種のパロディであり、実際に最終章の半分は大島弓子的文体のパロディから成っているのだが、ここで気づくことは、パロディとはとりもなおさず「妄想」なのだということだ。真面目も不真面目もどこか演出過剰に響くのは、それが妄想だからである。
橋本治」の「私」が「少女」という存在の「私」に託されるのだ。妄想でなくてなんだろう。しかし妄想であればこそ、パロディは軽薄な手品ではなくなるのではないだろうか。そしてその証拠は吾妻ひでお論だけがなぜか圧倒的につまらないという事実から明らかになる。
吾妻ひでおの漫画は徹底的に内面を排している。それなのに橋本治はそれを意識の問題として語ろうとしている。大島弓子吾妻ひでおを通じてほとんど同じことを語るというアクロバットを、最後の二章で橋本治は試みているのだ。しかし吾妻ひでおに関しては、それは全く失敗していると思う。
だが、もし彼が吾妻作品をも比類ないクオリティで論じきっていたとしたら、すべては天才的の超絶技巧に還元されてしまったかもしれない。要するに「軽薄」になってしまったかもしれないのである。吾妻ひでお論の失敗によってこそ、橋本治が何を伝えたく、何なら伝えうるのかが見えてくる。
他人にも「意識」があるということ、このことに気付けずに「意識」を抱え込んだ「私」たちの集合が、私と私以外を隔てるこの非対称の相互性を通じて「意識」のない「社会」というフィクションを、しかしのっぴきならないものとして「私」の外部に作り出している。それをいかに受け入れるかということ。
要するにいかにして「みんなだいすきだよ」と言えるかということ。本書に捧げられたこのエピグラフを、橋本治が当時においてどこまで自分自身の言葉としていたかは誰にも分からない。だが少女たちの声をポリフォニックに借りながら、それを何とか信じようとしていたのは確かだろう。いい本であった。
 
9/5
劇研アクターズラボ+村川拓也「人形の家」(イプセン作)@アトリエ劇研
ノラは6人によって演じられる。うち5人は舞台後方の壁に並び、夫ヘルメルに愛玩されるノラの声を演じる。ノラの「本体(?)」と思われる1人は終劇直前まで声を発することはない。
5人のノラの演技は「いかにも演劇らしい」誇張に満ちているが、必ずしも台詞の内容に即した表現を行うわけではなく、言葉と演技はしばしば乖離する。それは夫ヘルメルの演技にも言えるが、違いを挙げるとすれば1.彼は一人によって演じられ、2.演技の振れ幅も少ない。安定している。
ノラの声は5人であり、テンションはめまぐるしく変化する。しかもそれらの声から分裂した本体が可視化している。ノラとヘルメルの演技過剰はいずれも彼らの結婚生活が人形ごっこ的な虚構であることを明かしているが、夫があくまで同一性を保ち「ごっこ」を地で生きているのとは対照的である。
6人めのノラ本体は、劇中、ずっと夢遊病的にさまよっている。ときおり舞台=人形の家から出てゆこうとするが、5人の声が暴力的に引き戻す。夫が扉をしめ直し、閉じ込める――しかし力なく倒れる彼女を無理矢理に立たせ、クロークスタットに対峙させるのも夫である。この両義性をどうとるか。
ところでヘルメルは、1円玉を折にふれ床にばらまき、劇中の時間に節目を入れるというメタ的な役目も担っていた。これはクロークスタットの「はい!」という掛け声と類似の機能を果たしている。ヘルメルが体現する金銭という原理はノラがこれから見つめるべき社会の基本的な原理だ。
クロークスタットとの対峙は、ノラが人形の家から脱出する決定的な契機である。したがってノラ本体を立たせる夫は、彼女を閉じ込める私人トルヴァルではなく、ノラの変化を潜在的に用意した、銀行頭取としてのヘルメルーーノラが対峙すべき社会の象徴としてのヘルメルなのだろう。
ところでクロークスタットの演出も面白い。彼は時に不正を犯しつつしたたかにしかし孤独に社会をサヴァイヴしてゆこうとする男である。彼はマイクを用いて話す。彼の演技も一見、ヘルメルや5人のノラ同様の「演劇らしさ」を志向しているようであるが、実はそうでないことがわかってくる。
というのも彼は、クリスティーネとの和解という重大な心境の変化を伴う出来事に際しても、ノラを脅迫していた際の演説口調を全く変えないからである。彼は演技過剰なのではなく(たぶん敢えて)一本調子なのである。これは別カテゴリであって、多分ラスト、ノラ本体の語りもそこに属している。
クロークスタットの一本調子な語り方は、おそらく彼の根本的な生存の型のようなものなのではないか。演技を捨ててサヴァイヴァルを始めたとき、ひとは驚くほど単純な、一個のスタイルに還元されてしまう。抑揚のないノラ本体の語りもまた、仮想を剥がした彼女の生のスタイルなのだと思う。
だが気になることもある。クロークスタットははじめマイクを通して話していたが、和解の場面では肉声になる。ノラは彼の捨てたマイクを拾い、そこから声を発しながら舞台を去ってゆく。純粋に演出としてのクールさはあるが、しかしここにはノラの行く末に対する重いアイロニーが感じられる。
配布パンフレットにおいて村川拓也は実際、ノラの試みを「自分ひとりで自分の言葉を発見」することと解釈したうえで、それが「徒労に終わる」ことを示唆している。なぜなら「他者の視線から逃れることはできない」からだと言う。そしてマイクは他者の視線を誘導する装置に他ならない。
会場の外に出たノラのマイクは、路上を走るバイクの音を微かに拾っていた。私たちが70分前までそこで生きていたはずの外界の音。私たちは今劇場の中にいる、というか取り残されている、そんな風に感じた。劇中もっとも張りつめた瞬間であったと思う。
 
9/7
柄谷行人『意味という病』
構造に絡め取られ自らにとってさえ不透明な一個の「謎」として現れる自己の精神あるいは実存を「見る」ことで意味づけるのではなく、意味の手前でただ「生きる」とき、それでもなお明晰であるための方法が問われている。
第2版のあとがきにおいて柄谷自身はこの著作が「不徹底」であり強い嫌悪を覚えると述べている。が、たぶんそういう不徹底さに彼は最初から気づいていたのだと思う。この論集には、徹底的たらねばならないことも、徹底的たりえていないことも知っていた者の「もがき」のようなものが見える。それが愛おしい。
 
9/13
プリントサイズは葉書大から背丈以上まで、被写体スケールは解体された蟹身から瀑布まで。この二重の落差が半ばランダムに壁面をたわむれるとき、我々が絶えず焦点距離を操作しつつ捉えている不完全な断片の集積としての世界、という観念が鮮やかに具象化した。
 
9/20
佐伯一麦『震災と言葉』(岩波ブックレット
ここ数年、自分が大切にしてきたはずの「言葉」という言葉の社会的重要性が高まると同時にインフレ気味でもあるのが切なく、安易に「言葉の力」を叫ぶ言論に警戒しているのだが、他方で実際にいろいろ読んでみようという気にもなっていた。
辺見庸への評価は私の場合、ややアンビバレントある。いかんともしがたい誠実さの印象と迫力はあるものの、それは黙示録的というか預言的というか、その手の物言いとかなりすれすれのところで発せられているように思う。佐伯一麦のこの本は、その意味で対照的である。ありていに言ってしまえば、ずっと地味なのだ。
一番よかったのは、第一次戦後派には描けなかったものが「内向の世代」を待って初めて可能になったことを想起して、災厄に対して今発せられる言葉を現在の立場から否定し批判するのではなく、これから10年20年経って現れてくる表現を待とうとおっしゃっていたところ。必要なのは息の長い時間だ。
 
10/2
ブレンディのCM
「望み薄い」を「薄いって言われた」とわざと言葉足らずに反復させ、母親の「特別なものを持ってる」発言を契機に突然胸を強調し始め、女の子自身に「胸を張って自分を出しきる」とまで言わせた挙句「濃い牛乳を出しきる」で種明かしするのが「オッサン」であるのは象徴的だ。このCMの気持ち悪さはシチュエーション全体というより、当事者たちに役割上与えられた一見真面目な一連の発言が、校長のオッサンという男性権威の象徴が最後に発するひとことによって事後的にセクシュアルなダブルミーニングを帯び始めるという構成のほうにあるのではないか。要するに、下品なオッサンがよくやる「女の子に意図しないエロ発言をさせてニヤつく」というあれをそのまんまクリエイティブっぽいパッケージングでやっているだけなのではないかという疑念を拭い去れないのである。
 
穂村弘「ちんちんをにぎっていいよはこぶねの絵本を閉じてねむる雪の夜」
思わず涙しかねない感動的な一首。男根所有者であること――それこそ少年を呪う罪と哀しみと美しさの極限なのだけど、勃起もできずただ握られるがままの「ちんちん」が持ちうるやさしさに、我々は希望を託すべきなのではないだろうか。
 
10/25
三浦大輔『愛の渦』
アダム・フィリップスによれば精神分析とは「セックスをしないと決めた二人がたがいに何を話すことが可能なのかを問う」ことであるという。だとしたら三浦大輔の『愛の渦』はこの命題のあらゆるの要素を鏡像反転させた世界を描いているのかもしれない。
 
11/4
田島列島『子供はわかってあげない』
結局、ひとはラブコメには勝てないのだろうか、ギャグはときどき空回っているが、思わず泣いてしまったあとではそれもご愛敬。基本的に台詞まわしのセンスはかなりのものだし、絵柄も好み。「ああ、よかった」と思った――なんかよかったよ、ありがとうと言いたくなるのだ。
物語において一番難しいのは明ちゃんの存在だろう。M→Fのトランスジェンダーという設定だがその「必然性」はかなり希薄で、かといって属性そのものをギャグとする「オネエ」キャラのような「賑やかし」でもない(いかにもな外見もないし、カミングアウト持の衝撃も強調されない)。
必然性について言うと、設定上トランスジェンダーを「道具立て」にしているのはせいぜい「祖父からの勘当」の件くらいではないか。要するに明ちゃんという人間は「たまたま」トランスジェンダーなのだ。現実世界を生きる私たちのさまざまな属性が、用意された結末のための「伏線」などではないのと同様に。
屋上を見上げたら誰かがいて……から始まる怒涛のご都合主義的展開の「恣意性」は、明ちゃんが「たまたま」トランスジェンダーだったり阿堀さんが「たまたま」指圧師だったりというもう一つの意味での「恣意性」と混ざりあうことで作品世界を「そういうものとして」読者に受け入れさせている。
これら二つの「恣意性」の混在は、笑いの質のムラ(キレキレのものからあまりに野暮ったくガキっぽいものまで/あるいはネタの参照年代がばらばらだったり)と込みで、田島列島という書き手の性質を表している(あとがきを読んでもそう思う)。彼はすべてを真面目に、素でやってるのだ。