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和製オドラデクの生活環

きみの物語は終わった/ところできみはきょう/おやつに何を食べましたか――富岡多恵子「静物」

フィクションの無益――「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のこと

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なんとなく観ずに済ませてきたトリアーの「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を今更ながら鑑賞した。それによって、これまで観るのを渋ってきたことの正当性はしっかりと裏付けられた。つまり私はこの作品を「初めから救いがないと分かっている話を追うのはつらい」と言って避けてきたわけだが、鑑賞のさなかに感じていたのはまさしく「初めから救いがないと分かっている話を追うのはつらいなあ」ということだったのである。身も蓋もない言い方だが、そうとしか言いようがない。
 
この映画が喚起しようとしている情動は、怒りでも悲しみでもなく、おそらくただ「徒労感」に尽きるのである。徒労感。無力感。間違ってもそれを人生の虚しさと勘違いしてはいけない。この映画が私たちに悟らせるのは、おそらくフィクションという経験一般が隠し持つ砂を噛むような無益さ、意味のなさである。
 
仕掛けられる虚構の累乗。まず物語そのものの虚構性が前提としてあるわけだが、本作の場合そのうえさらに主人公セルマの空想がそこへ織り込まれる。またハンディカメラによる映像はドキュメンタリーを擬していて、それゆえここにも見せかけ、嘘がある。この第三の虚構の虚構性は、そこに第二の虚構(セルマの空想)が写り込むことで否応なくあからさまにされてしまう。だからこの物語がつらいのは、決してその真実らしさゆえのことではない。むしろ全て作り物であるという事実がやるせなさを生む。
 
何もかもがからくり仕掛けのように整然と進行してゆく。結末に用意された死も、用意された因果関係の連鎖から導かれる必然的な帰結でしかない。試みに「ドラマ」という語をこのような連鎖を切断する「出来事(あるいは奇跡)」の介入と理解するならば、私たちは本作においてドラマ抜きの死の論証を見せつけられていることになる。なぜなのか、と私たちは問うだろう。それがあくまでも作り物であるならば、何らかの救いを組み込むこともできたはずなのだ。なぜそうしなかったのか。私はなぜ、結果の先取りされた実験の過程をひたすらに凝視させられているのか。
 
セルマが言うように、私たちはそう思いさえすれば「最後の歌」を聴かずに済む。「最後から二番目の歌」でやめる権利は常に与えられている。これは「フィクション」なるもののほとんど完璧な定義であると思う。私たちはセルマの最後の歌を聴かずに済ますこともできた。あるいは、聴いてしまったとしても、私たちにとってそれは何ら「最後の歌」ではないのだ。言うまでもなく人生は続くのだし、フィクションの経験も繰り返される。最後の歌は際限なく現れ、それゆえどれひとつとして最後の歌ではなかったことになるだろう。だからこの映画においては思わず涙することすらも不快な、あるいは不潔な感じがする。そう思いさえすれば、私は最後の歌を聴かずに済ますこともできた。ではなぜそうしなかったのか。なぜ私は泣くことを選んだのか。
 
「これは最後から二番目の歌」であると言う権利が常に与えられていること――それはフィクションの希望であると同時に、絶望でもある。最後の歌が予め失われているがゆえに、フィクションの経験は本質的に無益であり、冗長なのだ。そのことを暴き立てている限りにおいて、私はこの作品について無邪気に「観てよかった」とはとても言えないし、そう思うことは原理的に禁じられていると思う。観なければよかったと言わねばならない。後悔し、物語に対して懺悔しなければならない。おそらくトリアーはそうしているのだろう。
 
とはいえ私がこの作品を見ながら漠然と抱いたつらさや無益さの感覚をこんなにも大袈裟にとりあげて反省するに至ったのは、結局のところビョークの演技がものすごかったからに他ならないし、主演女優が魅力的であるというそれだけで単純に「いい映画」と言うべきなのかもしれないが。