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和製オドラデクの生活環

きみの物語は終わった/ところできみはきょう/おやつに何を食べましたか――富岡多恵子「静物」

田崎英明『ジェンダー/セクシュアリティ(シリーズ・思考のフロンティア)』と『無能な者たちの共同体』のためのノート

以下は岩波書店の叢書「思考のフロンティア」の一冊として刊行された田崎英明ジェンダーセクシュアリティ』(2000年/以下GS)および同じ著者による単著『無能な者たちの共同体』(未來社、2007年/以下CI)からの引用の羅列である。
晦渋とも柔和ともつかない文体と裏腹に定義のない言葉(ジャーゴン)の濫用は比較的少なく、それどころかこの2冊は殆ど「定義集」とさえ呼ぶべき内容のように思う。ただしその定義も少なからず謎めいているし、体系だった整理がなされているとはとても言えない。そしてそのために私は、彼の著作によって何かを書きたいと感じつつも、まとまった文章の形でのメモを残すことを早々と諦めてしまったのだった。
 
なお引用中の下線はすべて引用者による。
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 ・性、セックス、セクシュアリティ
「〔生物学的な「性」の概念は「二つ以上の源泉に由来するDNAの組換え」と定義され、それは「個体数の増加」として定義される「生殖」とは別なのだから〕私たちはついつい性と生殖が切り離せないように思ってしまうが、生物学的にはこれは間違いであり、私たちがたまたま多細胞生物に生まれついたことからくる一種の偏見(多細胞生物中心主義?)に過ぎない」(GS, p.45)
 
「何かのキッカケで自分の中に入りこんだDNAを用いるためには、実は大切な前段階がある。それは、そのDNAを消化してしまわないことである。単細胞生物であっても、当然、外界から内部へと取り込んだ他の細胞を分解する酵素をもっており、それによって栄養摂取をする。それをしないこと、外部を貪り食わないこと、動物的な生の停止がセックスの条件なのだ」(GS, p.47)
 
「種という観点は〔…〕個体の過去と未来を、現にいま存在するその個体に似たものからしか考えない。個体は自分に似たもの〔…〕から生まれ、自分に似たものを後に残すのだとされる。〔…しかし〕細菌のセックスでは、自分自身が自分の子供である〔…〕が、それが自分に似ているとは必ずしも限らない。〔…〕自分の過去も、未来も、自分自身でありつづけ、別の個体になってしまわないにもかかわらず、自分に似ていない」(GS, p.56)
 
セクシュアリティとは、壊れやすさという相のもとで捉えられた生のことであると、とりあえずはいえるだろう」(GS, p.88)
 
・朽ちること
「神話的時間においては、実のところ、生それ自体が時間から救われる。神話的英雄の死後の存在は不死であり、朽ちることはない。だが〔…〕歴史上の数多くの死者たちは悲劇的な英雄ではないのである。死者もまた朽ちゆくことを免れえない。ここにおいて、死ぬことと朽ちることとの決定的な違いが明らかになるであろう。〔…〕死者はもはや死にえないが、それでもなお朽ちる存在なのである」(CI, p.134)
 
・見ること、同一化、サド・マゾ
「〔見るという行為は「見せられる」という受動性を孕んでいるが、見た者は見せられたものを「語り」によってさらなる他者に対し再現することで、自分にそれを見せた行為者に同一化するのだが〕私としては、このようなかたちでの受動性の能動性への転換、より正確にいうなら、自らの受動の否認を通して能動性へと到りつくあり方をサディズムと呼びたい。〔…〕だが、語ることはそのような能動性に尽きるのだろうか」(GS, p.4)
 
「〔映画の経験においては〕ある視線(観客の)が別の視線(登場人物の)と重ね合わされ、そのことを通じて、観客は登場人物(の身体)と同一化することができる。しかし、このとき、登場人物に合体し、その身体に寄生して棲みつくまで、観客の身体はどこにいて、どうしているというのだろうか」(GS, p.9)
 
「〔…〕支配されることを完全に学ぶことはできない。〔…〕学びうるとしたら、それは支配することを学びうるかぎりにおいて、支配者への同一化が可能なかぎりにおいてなのである〔…〕被支配者の、支配者の伝統との関わりは〔…〕一般に自己-他者関係と考えられる支配関係を、自己-自己関係へと置き換えるところにその特徴がある」(CI, p.98)
 
・装置の問題系
「装置〔「家父長制や資本主義、あるいは家族、国家、ネーション、言語」p.10〕は身体に働きかける。身体を触発する。身体が装置に組み込まれるのは、身体が備えている「触発されうる」という力能においてなのである。〔…〕人間が装置を選ぶのではない。人間による選択choiceではなく、装置による選びselectionなのだ。私たちは、自分の存在との関わりを、まずは「選りによって」というつぶやきとともに、はじめるしかない。〔…〕幸運であれ不運であれ、なぜ、ほかならぬこの私なのか。このつぶやきは、装置と人間の境界線上に生まれるものだ。このようにして、私たちは自分の個体性に向き合わせられる」(GS, p.12)
 
「身体が持つ、触発されうるという力能は、生の根源的な受動性の問題なのだ」(GS, p.13)
 
・日常性、生き延び、「機械」
「私たちの日常性というのは、何らかの問いや疑いに対する抵抗として存在する。ある意味では、私たちの生をばらばらにしてしまうものへの抵抗こそが日常性を生む。〔…〕スタンリー・カヴェルは、日常性というのは、懐疑論による(共同体の)破壊をくぐった後の、サヴァイヴァルした生の光景であると考えている」(GS, p.30)
 
「私たちの社会で日々を生き延びることは、誘惑に打ち勝つこと、誘惑する声からサヴァイヴァルすることと同義である。それは、他者へと晒されることなしに生きていける場所を確保することである。自分の「何者であるか」、自分の自分に対する親密性は、他者へと晒されている傷つきやすさからのサヴァイヴァル、生還として初めて可能になる」(GS, p.88)
 
「〔習慣的行為の領域を表す「エートス」とはカヴェル的に捉えられたウィトゲンシュタインの「生活形式」に近いとも言えるものであり〕身体のもっとも機械的な次元であり、人間の主体性の支持体ともいうべきものを形成している。〔…〕機械性とは〔言語や歩行のように〕このような習得することしかできないもののことであり、けっして、何らかのデザイン(意図)やプログラムの先行性を意味するのではない。むしろ、純粋な意図、志向性の実現とは、収容所的な空間において可能になる〔…〕収容所とは、機械性としてのエートスの破壊なのである。〔…〕機械ではない人間は、ただの生命、生命でしかない生命となる」(CI, p.94)

・政治と歴史
「ポリスとは、巨大な墓である。〔…〕それは死者たち、戦争で自分たち――「われわれ」――のために死んだ死者たちを記憶しておくためのものなのだb。歴史とは、このように、死者たちの中から、自分たちのために死んだ者を選び出す操作〔…〕自分たちの過去と他者の過去とを選り分ける操作である」(CI, p.26)

「シュミットの重要性は、社会契約論が「自然状態」として、つまり、主権国家の「前史」というかたちで歴史化して、国家のうちにしまい込んでしまったかに見えた「国家の存在」を、もう一度、「例外状態」として、国家と共時的に存在するものとして明るみに出したところにこそある」(CI, p.46)

「現在進行しているのは〔…〕「リスク回避」の何重にも張り巡らされた網の眼によって、何かが起こるということと怒らないということの境界が、とりわけシミュレーション・テクノロジーを通じて、限りなくぼやかされ、「真偽」の問えない領域が現実の中に広がりつつある事態ではないか」(CI, p.222)
 
・2つの「非器官的な身体」
A「自己」の内在的な生としての
「生きるということは、外界からの栄養摂取に先だって、まず、自分自身を貪ることではないだろうか。〔…〕そこには、外部はないし、したがって他者もいない。〔…〕自己とはこのような生の純粋な内在性である。〔…〕動物的な生を構成する外部/内部という区別によって可能となる能動/受動の区別よりも深いところで、生は、自己を受け取り、それを享受し、「老い」によってなされるがままにされる」(GS, p.15-16)
 
B 装置に捉えられポジションづけられた生としての
「〔シャルコー的な催眠暗示の手法から精神分析への移行は〕可視性の領域を去り、ことばの領域へと移行することを意味している。〔…〕精神分析のポテンシャルは、したがって、「見ること」を通じて補足してくる装置群への抵抗にこそある。〔…〕見えるものによる誘惑をことばによる誘惑で置き換えること〔…〕非器官的な身体を可視的な器官的身体から切断して言説と関係づけること」(GS, p.22)
 
「私としては、言語による非器官的なものへの移行に、「自己」との関わりを見ておきたいのだ。つまり、言説および装置は、ポジション(それは非器官的であるが、基本的にはすべて「私」〔=自我「外界に対して働きかけるための座標系の原点」p.15〕である)へと器官としての身体を配分する。ポジションの集合と器官的身体の集合との対応をつけるのが、言説であるといえる。それに対して、「自己」はポジションではないし、また、それは内在的生であるのだから、当然、器官的な身体でもない。言語を装置とは別の平面に展開できないものだろうか〔…〕まずは、言語に対する「私」の支配権(サディズムの基本はこれである)を放棄すること」(GS, p.27)
 
・自我と自己
「「私は語る」〔「すべての発話に付随する空虚な発話」p.62〕が確保するのは発話ないし言説の単一性=単位である。この「私」が、経験的に単一の、あるいは同一の人間であるかどうか、それがたった一人であるかどうかとは別の話である」(CI, p.63)
(Cf. 歴史との関連から:「歴史は、個々の「私は語る」を抹消し、「それは語る」で置き換える。「それ」とは、あるときは「民族」であり、あるときは「国家」であり、あるときは「存在」である〔…〕」p.63)
 
「〔自他の差異ゆえにコミュニケーションは必要となるが、あらゆる発話主体は「私」である〕「私」は、このように何にでも憑依する。何かに取り憑いているかぎりでそれは存在する〔…〕コミュニケーションとは、一面で、このような「私」の憑依のプロセスであり、したがって、そのかぎりでコミュニケーションの可能性――あなたと私の違い――の否定なのだ」(CI, p.114)
 
「「自我」というのは、「他者の廃棄」の記憶によって生み出される「疚しい意識」であるといえるだろう」(CI, p.171)
 
ベンヤミンの認識論は〔…〕言語が否応なく振るってしまうそのような〔フィヒテ的な〕遂行性への批判として目論まれていると理解すべきではないのだろうか。つまり自我=私の措定の批判である。〔…〕たしかに、私たちはもはや言語について素朴な記述の理論に後戻りすることはできないだろう。しかし、それでは、言語の遂行性を無批判に受け入れて、それで事足れりとしていてよいのだろうか」(CI, p.169-172)
 
・名と呼びかけの問題
名を呼ぶこと、それは私の無力さの表明にほかならない。もしも、それ以外のことができるのなら――たとえば、駆け寄って抱き起し、手当てをするとか、あるいは、襲いかかる敵を倒すとか――私はそうしただろう。しかし、できないから、ただ名を呼ぶのである。〔…〕それが失われたことに対して、自分が何もできなかったということの表明である」(CI, p.33)
 
「名を呼ぶこと〔…においては〕二人称として直接呼びかけることができるものと、そうはできない、三人称にとどまるものとの違いがある」(CI, p.157)
 
「一人称と二人称の間の交代可能性は、相互の命令によって一つの閉域をかたちづくるだけである。それが開かれるためには、三人称の導入が必要なのだ。ただ指示対象として言及されるだけであって、みずからは発話のイニシアティヴをとりえない存在、そのような三人称、つまり、自己である」(CI, p.203)
 
・「人類」
「自己が構成する共同性を私は共同体と呼びたい。それは、社会的なものものとは区別されるだろう。共同体は、新しくやって来た者〔…〕によって誘惑され、自分のこれまで来た道を踏み外すものたちによって構成されている。それに対して、社会は、新しく来た者に命令する。黙れ、私のいう通りにしろ。私はお前の手本である」(GS, p.94)
 
「共同体は開かれている。したがって、その境界を区切ることはできない。ということは、存在するのはただひとつの共同体でしかない。それは、「人類」である。〔…〕人類というのは、誘惑されて社会から道を踏み誤るその瞬間に形成される存在である」(GS, p.95)
 
おまけ:精神分析について
精神分析の問いは、「なぜ無ではなくて存在があるのか」という形而上学的問い〔…〕の人間学ヴァージョンであるということができる。「なぜ人間は世界の存在に、他者の存在に耐えて生きることができるのか」と精神分析は問うのである」(GS, p.114)

フロイトのテクストはそれ自体夢のようなもので、読んでいるときはつながっているように思えるのだけれど、後から振り返ってみると部分部分の論理の接続がよくわからなくなってしまう」(CI, p.138)