和製オドラデクの生活環

きみの物語は終わった/ところできみはきょう/おやつに何を食べましたか――富岡多恵子「静物」

高橋源一郎『「悪」と戦う』、河出文庫

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高橋源一郎らしさ」とは何か。それを定義するのは意外にも難しい。
 
もちろん「いかにも高橋らしいパッセージ」を抜き出してみせることはいくらでも可能だ。けれどその特徴を「物真似」できるほどに分析するというようなことは、例えば村上春樹などと比べるとずっと、複雑な作業なのではないか。
 
そしてそれはおそらく、彼の文体そのものが、多かれ少なかれパロディ的であるからだ。
 
例えば本書『「悪」と戦う』ではあからさまにライトノベルの文法が取り入れられているが、元ネタをこのようにはっきりとは指摘できない場合であっても、高橋源一郎の文章は、それが高橋源一郎的であればあるほど、同時に何か別のものに似ている
 
あるいは文体レベルで「演技」しているというべきだろうか。
 
リリシズムは高橋源一郎作品の大きな特徴である。だが実はその性質はーーしばしば奇矯な設定やレトリックで粉飾されているもののーーものすごく「チープ」で、言うなれば「ど直球」である。
『「悪」と戦う』について言うと、ラスト付近での弱く哀しい存在としての悪を形象化する際の演出は、とりあえず紋切型であると言わざるを得ない。『さようならギャングたち』における「廊下」やキャラウェイのエピソードにも、おぼろげながら何らかの「型」の存在を感じる。
 
ただそのうえで高橋の凄いところは、そのチープさが決して読者を白けさせない点にある。恥ずかしいほどひねりなく模倣されたラノベ的文体は、彼の秘技的なセンスによって、高橋源一郎的なリリシズムの優秀な装置として組み込まれる。
テンプレに沿った文体レベルの「演技」は、特有のすぐれた情景喚起力を発揮して私たちの胸に強く訴えかけるわけだ。
 
しかしながらそうしたリリシズムは内容、つまり具体的な筋書きやメッセージそれ自体から発するものではないと思う。あくまで演技でありパロディである以上、そういうものは言わば「異化」されて提示されていると考えるべきである。 これは、感動がギリギリで笑いに「転じる」、というのとも少し違う。叙情性そのものは決してフェイクではないのだが、ただ、その在り処が内容とは別のところにあるのだ。
 
具体的にそれがどこなのか、ということについては後で話すとして、いずれにせよここで述べたことは少なくとも初期三部作には明らかに当てはまるだろう。けれど本作『「悪」と戦う』の場合、事情はすこし変わってくる。
 
本作には、明白なメッセージがあるように見える。
そしてそのメッセージが、この物語の感動の中心であるようにも、見える。
 
しかし私は敢えて、こうした読み方に抗いたいと思った。殆ど生理的に、「悪とは何か」という問いに対するこの小説の見かけ上の答えを、ひとまず宙吊りにしておくべきだと感じたのである。
 
世界から拒まれ、生きることを拒まれた「かなしい」存在としての「悪」ーーそれは仮に小説家かつ言論人としての「高橋源一郎」の答えではありうるとしても、決してこの小説の答えではない。
 
この見かけ上の答えは、ラスト付近で再び3歳児に退行してゆく「ランちゃん」の
「あくって、なんかかなしい」
「あくって、そんなにわるくないきがする」
という言葉に託されている。
 
これが高橋自身のまじめな直感であることは否定しがたい。しかしながら、それをこの小説そのものの答えにするつもりなら、中途半端に台詞にせずに暗示に留めるべきではなかったのか。
また反対に、ここまで端的に命題化可能な答えが用意されているなら、なぜそれをわざわざこのような小説で訴える必要があるというのか。
 
おそらく高橋源一郎自身が、この答えの大切さを信じようとしながら、同時にそれが一個の紋切り型でもあることに気づいていたのだと思う。
だからこそそれを、読者が読解すべきテーマにも、プロローグとエピローグにヴォネガットさながらに登場する「わたし」の直の主張にも、できなかったのではないか。
 
そのような主張を「ランちゃん」のひらがな言葉に託したあの一節が、本作の紛れもないクライマックスでありながら同時に最大の失敗点でもあったように感られるのはそのためである。
 
そして、もっと率直に言うと私はこのテーゼそのものに疑問を隠せない。
 
生きられなかったものの怨念として悪を定義して、そのうえで呪いに堕ちることを免れた「マホさん」のような存在をアンチテーゼとして立てること。それを文字通りに解釈するなら、要するに「ランちゃん」を通じて悪を一旦憐れみ、憐れむことで自らを正当性を保証しつつ、悪に抗いうるある種の「強さ」を根拠に「悪は悪だ」と言って済ますことにはならないだろうか。
 
そしてそれは、どことなく受け入れがたいものを孕んでいる。
 
少なくとも、ランちゃんが仮想体験した三つのパラレルワールドの物語を辿ったものには、そんな浅はかな答えを受け入れることは難しいと思う。そこには確かにもっと、ずっと豊かなものがあった。それがなんであるにしても。
 
このテーゼを文字通りのものとしては拒むこと、それは「マホさん」の存在を抽象的な強さに還元してしまわないためでもある。
「マホさん」は「悪」のアンチテーゼではない(むろん「ランちゃん」も)。しいて言えば彼女は、悪とは何かという問いにとりあえずの答えを与えようとする作者・高橋自身に対して、問いを開かれたままにしておくための内的な「批評」なのである。
 
悪の哀しさというテーマ。それは断続的であれ常に多くの人々(例えば本作にもモチーフとして頻出する「戦隊ヒーローもの」のクリエイターたち)によって真剣に考えられ続けてきたものであるはずだ。
そして私たちは「あくって、なんかかなしい」という言葉を、それら連綿と続く思考への敬意に満ちたパロディーーつまりはオマージューーとして読まねばならないのだ。それはこの小説をあくまで小説として受け入れるために、どうしても必要なことである。
 
悪は哀しい、と主張することが耐え難い偽善を巻き込んでしまうとしても、悪の哀しみの可能性について、生まれなかった子供について考えることそれ自体の発端には確かに、優しさがあるだろう。
私の言う「敬意」とは、こうした優しさへの敬意である。
高橋源一郎のリリシズム、と先に呼んだのは要するにこのような、内容や形式に先立つ未分化な「優しさ」のことだ。彼の文章は優しい。紋切り型を演技しながらリリシズムに昇華させる彼のセンスとは、一見チープで素朴なテンプレートの底から驚くほど繊細な優しさを汲み取る才能なのだ。
 
「あくって、なんかかなしい」というテーゼを敢えて宙吊りのままにすることで、私たちは物語のエーテルのような優しさだけを確かに、把握する。
 
なんだかそれも浅はかに聴こえるかもしれない。しかしこれでいいのだと思う。おそらく高橋源一郎の小説が担いうる「倫理」のもっとも豊かな可能性は、決してメッセージにはなりえない単なるムードの中にこそ、横たわっている。